Movie: ランボー・シリーズ5作品

 

 

 

 

 

 

この1ヶ月くらいCATVでランボーシリーズをやっていたので、なんとなく観ていましたら、面白かったです。何が面白いかったかと言いますと、その背景です。シルベスター・スタローン演じるジョン・ランボーは「ベトナム戦争によって負ったアメリカの傷」を負う悲劇の主人公です。仲間も、居場所も、名声も、振り上げた拳を下ろす場所もすべて失った孤独な人物です。ランボー第1作目では、配役が決まらなかった際に、スタローンは、ギャラを下げてまでも出演を熱望したといいます。続編の『ランボー/怒りの脱出』(1985年)、『ランボー3/怒りのアフガン』(1988年)『ランボー/最後の戦場』(2008年)、『ランボー ラスト・ブラッド』(2019年)ではすべて脚本を担当しています。

当時アメリカ国内をはじめ、欧米資本主義国では、ベトナム戦争への反発は大きく、敗戦とは言わないまでも、目を背けたい現実でした。第二次世界大戦戦勝国アメリカ人にとっては汚点でした。鬱蒼とした気持ちや怒りの矛先になったのが、ベトナム帰還兵でした。バッシングもひどいものだったようです。

ランボーのキャラ設定は、ベトナム戦争の時のトラウマがなかなか払拭できず、また一度火がつくと、無慈悲なまでに反撃します。この点について、ランボーシリーズには批判が根強いようです。アクション好きではない視聴者にとっては、「やりすぎ感」は否めません。このイメージだけが一人歩きしている嫌いもあります。

改めて作品をみてみると、シルベスター・スタローンが、ただのアクションや兵器マニアにすぎないイメージは崩れました。むしろ伝えたいことが他にあって、人目を引くためにアクション映画の形をとっているだけなのかと思うほどです。本当に伝えたいことは、「心の戦争は終わっていない」の一言に尽きると思います。これは、『ランボー3/怒りのアフガン』で、ランボーのかつての上司トラウトマン大佐との会話で発せられるというセリフです。主人公ランボーはいつまでたっても居場所が見つからず、例えばタイに沈潜し、格闘で稼いだ賞金を僧侶に全部寄付したり、仏教寺院の修復の住み込みボランティアしたりと、どこでもいいから腰を据えて落ち着こうとするものの、様々な事件に巻き込まれてしまいます。かつての上司の大佐トラウトマンが声をかけるのがすべての発端ではあるのですが、その辺は映画なので仕方がないでしょう。結局、引き受けることになり、現地では、社会的弱者、女性や子どもたちが各地で殺戮される現場を目の当たりにし、魂に火がつきます。そういえば、BBCドラマ「シャーロック」のジョン・H・ワトソンも同じ設定になっています。心がそれを求めているというのでしょうか。本人の意識とは裏腹に、そういったものや人と縁があるのかもしれません。ランボーの場合は、鍛えられた肉体とゲリラ戦での能力は超人レベルですから、本気になれば無敵です。

スタローンは熱心なローマ・カトリックのキリスト信者であることが脚本にも反映されており、『ランボー/最後の戦場』では、キリスト教NGOのメンバーが物語に重要なプロットを落としていきます。『ランボー3/怒りのアフガン』では、神を信じるアフガンの反乱軍とともに現地を掌握するソ連軍に立ち向かうストーリー展開をみると、頭ではなく、心で神を感じている人なのかもしれないと思いました。皮肉にも、アフガンではソ連崩壊後、旧ソ連軍は撤退するのですが、内戦が勃発し、タリバンの台頭を許すこととなるのですが。

ランボー ラスト・ブラッド』では、味のあるスタローンが見られます。アリゾナ州ボウイの亡き父の牧場で、旧友マリア・ベルトランとその孫娘ガブリエラと共にで暮らしています。スタローンは共和党支持者として有名ですが、牧場を経営しながら余生を過ごすところあたりは典型的な古き良きアメリカ人の姿として映ります。ただし本作も、メキシコに対する人種差別や外国人嫌悪につながるとして非難を受けています。個人的に思うのが、旧友マリアとその孫ガブリエラは、顔立ちとスペイン語を話しているところから、ヒスパニック系かメキシコ移民ではないだろうかと思ったのですが、詳細はわかりません。

ジョン・ランボーとその良き理解者の元上司トラウトマン大佐の関係は、インド神話叙事詩)「マハーバーラタ」のアルジュナとクリシュナ関係にも似ているように思います。神話では、アルジュナはインドラの息子であり、化身とされます。インドラは、炎神アグニに自分の神弓ガーンディーヴァも与え、それもやがてアグニからアルジュナに渡されます。アルジュナは天国(インドラ)へ行き、多くの武器の使い方を学びます。叙事詩ラーマーヤナ』では、主人公ラーマが「インドラの矢」という武器を使用して敵のクンバカルナを討ちとる場面があります。こじつけかもしれませんが、ランボーは火を上手に使い危機を脱し、ここぞという場面は弓矢で敵を仕留めます。トラウトマン大佐は唯一ランボーが聴く耳を持つ相手ですが、「本当の自分からは逃れられない」「真の君を受け入れるまで苦悩は続く」「己をなすべきことを成せ」といったことを語ります。「バガヴァッド・ギーター」のクリシュナのイメージと重なります。

Books:  こころの読書教室 / 河合隼雄(2006)

 

河合隼雄さんによる書籍の紹介。カフカドストエフスキー村上春樹よしもとばななの作品から、ユング十牛図茂木健一郎学術書、児童文学・絵本まで幅広く、「こころ」の観点から読み解かれています。「読まな、損やでぇ」とご本人も関西弁で推薦されていたものばかりです。

村上春樹の「アフターダーク」の解説では、まさに無意識の世界が描かれており、しかも作者自身はユングの論文など深層心理学の前提知識がないままに自分自身の体験で書いているところに注目されています。「ねじまき鳥クロニクル」に関連して、「癒し」について言及されていて、「この音楽、聴いたら癒されます」「これを食べたら癒されます」といった感じで、浅い癒しがもてはやされる嫌いがありますが、本当に深くなってくると、ものすごいことが起こらないと変わらない。しかし、音楽や食事でも癒されることもあるので、一概には言えない難しさもあると言われています。

村上春樹の小説は、結論がよくわからなかったとか、ハッピーエンドじゃななかったということで、嫌われるところもあるようです。人間というのは、内面にも外面にも理想がうごめいているもので、物語を読んでいても、こうなってほしい、こうなってほしくないってのがあるから、飽きずに見たり、読んだりとコミットし続けられるところがあります。しかし、村上春樹の小説には、どうみても好きになれないキャラがいて、とても悪いことをしているのに、バチみたいなのが与えられず、何事もなかったかのように、突如、姿を消してしまったり、物語が終わってしまうことがあります。読者は後味が悪いままです。この点を、河合氏は、我々の心の中で起こっていることというのはそう簡単に解決できるものではなくて、未解決のまま置き去りにされるものだといいます。小説中では、知的に物事を円滑に効率的に処理してしまう人が設定されており、こういった人物が後味の悪さを読者に与えています。これらの登場人物は、「頭」で考える人を象徴していると解釈ができ、「心」で感じたりしている人とは対比して描かれます。「頭」の人は、とても無機質で、未慈悲にも見えます。現代人を象徴しているとも言えますし、読者の理想を投影をうまくかわしているも言えます。この辺の村上節と言いますか、反面教師っぷりが個人的には好きです。

ただし、頭で考える物語がよくないわけではなく、世界中に伝わる昔話やお伽話というのは、人々の理想が描かれているから残っている。読んだり聞いた人々が、苦労は報われるとか、結婚をしようとか、子どもを作ろうとかって思い始める。話の展開はとても単純化されていて、表面的にも答えがわかりやすい。しかも、深く深く掘り下げると、心と密接に結びついています。村上春樹の小説は、心で生じたことだけを描こうとするから、すっきりしない感じになっており、読者は頭で考えて答えを引き出そうとしたり、単純化して何が言いたいのかって要約しようとすると、上手くいかないので、イラッとしてしまう。「シンデレラ」といった古くから広く人々に親しまれている物語は、「頭」で単純化しやすいところもあり、万人に共通した感動を与える部分、すなわち純粋に「心」を感動させる部分もある、ということです。

河合隼雄さんは、すでにお亡くなりになっておりますが、数学の才能のある天才肌の人で、元々は日本嫌いだったそうです。ヨーロッパでユングの研究を突き詰め、やがて日本に帰って、改めて日本の昔話やお伽噺に内在する深い部分の構造について研究します。一般の人々に対しては、「こころ」をキーワードに、語り部として、また聞き上手な人としても、社会に貢献されてこられました。頭で心がどこまで理解できるかって研究して、やがて心は心なんだと自分自身で悟られたんだと思います。長く語り継がれる物語には、何か共有したものがあり、それは頭と心の訴えかけるものがある。でも、すべての人は同じように感じるわけではなく、個人差があり心の多様性のようなものはある。理論として普遍化できるところ、一方で多様なものは多様なものとして引き受けなければならないところ、その狭間を上手にバランスを取っておられたのだと思います。

Books: 子どもと悪<子どもファンタジー>コレクションIV / 河合隼雄(河合俊雄編)(2013)

 

河合隼雄さんの著作物を初めて手にしたのはいつかは忘れましたが、読んでいると四角くなった頭のカドが少し丸くなるような気持ちになります。自分の10代の頃のことを振り返るつもりで読み始めた河合隼雄さんの子どもシリーズ。思えば、中学1年生・2年生の時期、自分も親に反抗したり、学校が嫌だった頃の時の方が記憶が鮮明で、誰と仲良くしていたか、誰とどこに行ったかなど、昨日のように思い出します。逆に、高校受験のために勉強に専念をせずにはいられなかった中学3年の時期の周りのクラスメートとの思い出はあまりなく、誰と何を話したかさえ思い出せません。きっと何も話していなかったんだと思います。しかし、その頃から、本や音楽が友達のようになっていたので、いつどんな本を読み、音楽CDに出会ったことはよく覚えています。自分の場合は、現実逃避程度の人格の表層に関わる程度の浅いレベルの反抗であったように思います。

しかし、本書で紹介されるクリエイティブなお仕事をされている(いた)著名人の10代の頃の話は、どの方も壮絶です。不登校、盗み、万引き、うそ、怠け、自傷行為、自殺未遂など、社会や大人からは、「やってはいけないこと」、すなわち、「悪」のレッテルが貼られることをやらかしてきたことを、河合氏に打ち明けています。

創造性は、想像によって支えられている。想像する力がないと創造はできない。

少年少女の場合、彼・彼女らの存在の中でうごめいているため、「悪」の形を取りやすく、本人には明確に意識されにくいと言われます。

秩序を破壊することが自分にとって利益でもないのに、あるいは損であるとわかっていながら、人間はやってしまうことがある。これは大人でも子どもでも同様である。このような破壊性、悪と名づけたい傾向を「人間の心」がもっていることは、認めざるをえないのではないか。

我々が生きている世界にはすでに何らかの秩序があります。その中で何か新たに創り出そうとすると、古いものを破壊する必要があります。したがって、どんな創造にも背後には破壊がつきまとうことになります。

科学技術と自然破壊を考えた場合にも、人類の進歩の観点からは科学技術は「善」ですが、自然の立場からすればそれは「悪」と考えられます。人間の本性のなかに、自然の流れに反するものがあるのかもしれません。いわゆる二項対立です。かといって、安易に「自然に還れ」と言ってしまうのは早計で、自然との関係性について熟考し、行動することが大切でしょう。

悪が一定の破壊の度合いをこえるときは、取り返しがつかないことを、人間は知っていなくてはならない。そして、そのような可能性を秘めた根本悪は、思いがけないときに、ひょっと顔を出すのだ。そして、後から考えると何とも弁解のしようがない状態で、人間はそれに動かされてしまう。このことをよく心得ていると、大切なときに踏み止まることができる。

それを可能にするためには、やはり、子どものときに何らかの深い根源悪を体験し、その怖さを知り、二度とはやらないと決心を固くすることが必要である。

学校や社会では、いじめ、援助交際、学級崩壊、自殺といった問題が深刻です。悪事を行う際の子どもの状況は、まさに鬼は憑依したかのような一瞬ゾッとするほどの顔つきです。しかし、大人が考える悪ということを子どもがしたとき、その悪は大人の常識を超える高貴さを潜在させていることもあります。子どもたちが秩序を崩壊させようとする悪に突き動かされそうなっているとき、その都度、反応する大人側にも、何らかの創造性が求められているとも言えます。

子どもの「悪」について良く理解することは必要であるが、それは決して甘くなることを意味していない。理解することと厳しくすることとは両立し難いようだが、理解を深めれば深めるほど、厳しさの必要が認識されてくるので、厳しさも筋金入りになってくるのではないだろうか。理解に裏付けられていない厳しさは、もろいものである。

以下、あくまで自論です。悪事を行う際の少年少女に鬼が憑依するという点について、人気アニメ鬼滅の刃を思い出します。残酷なシーンが多々あり、綺麗で小弱い女性に鬼が憑依する場面があるのにどうして人気があるのだろうと思っていました。本書を読んで思ったのが、少年少女たちが、何か根源的な悪の蠢きを感じながら学校生活を送っているからかもしれません。アニメ、漫画、音楽、小説、映画の物語をバーチャルで体験することで、悪を実生活に表出させず、自分の中で昇華、浄化させているのかもしれません。なかなか理性では捉えられないものだからこそかもしれません。

鬼と化した妹を人間に戻すために旅に出て、様々な人物と出会い、技を修得していく物語は、まさに自身の根源悪と向き合う旅を象徴しているのかもしれません。

Study:  Building Bee Database, One Dot At a Time. NY Times. Intl. Weekly. November 14, 2021

タイトルは、「希少なミツバチの一種のマーキング調査から送粉者のデータベース構築を目指す」

・ミツバチを含むポリネーター(送粉者)は、生態系で重要な役割を担っている。顕花植物の90%近くが、また農作物の35%が送粉者のお陰で繁殖できている。ミツバチの経済的価値は、数百億ドルにものぼる。

・しかし、その価値の高さに比べて、ミツバチを含む送粉者の個体数の激減についてはまだよく理解されていない。専門家による研究は、まだその問題がいかに深刻で、どの程度の範囲で起こっているかを調査し始めたばかりの状況である。

・研究者らは、どの種の個体数が減少し、その要因は何か、そして、その種が生息地の変化に対してどのような適応をするか、その仕組みを解明しようとしている。そのことにより、今後の環境の変化(転換)への対策を講じる際の一助になる。

・北米ではミツバチは送粉者の中で最も研究が進んだグループであり、データの蓄積も膨大である一方で、過去の研究がBombus属(マルハナバチが属する分類群)に偏っていることも否めない。マルハナバチの生態や行動・生理に関する研究データや仮説が、数百いる他のミツバチの種にどの程度適用可能かは議論の余地がある。

・野生のミツバチを調査するにあたり研究のハードルを上げているのは、特定のミツバチ種に絞って調査を行う場合でも、そのミツバチが訪花する植物種、たとえばブルーベリーなどは、非常に広範囲に分布していることである。

ニュージャージー州のRutgers大学の大学院生Max McCarthyは、州北部の湿地帯に分布するParnassusという草本植物を訪花する希少なミツバチAndrena parnassiaeを捕獲し、背中にマーキングをして、すぐに放している。これは、この種の個体が生息パッチ間をどれくらいの容易に頻度で移動できるか、またどの程度遠くまで移動できるかを調査するのが目的である。

・A. parnassiaeというミツバチは、湿地性の草本植物Parnassusを特異的に訪花することが知られており、生息域が限定されている。そのため、調査地が広範囲すぎることによるマーキングや再捕獲の困難さを軽減できると考えられる。A. parnassiaeに関する研究論文はまだ少なく、この種の農業的価値はまだ見出されていない。

・この希少なミツバチの一種を研究することで、動物界において、生息地の撹乱によって動物種がどの程度影響を受けるか、いかに適応するか、またどれくらいの速度で絶滅するかなど、今後予測するためのデータベースを構築する上で貴重な研究事例となりうる。マーキング調査は地道なフィールドワークではあるが、データベースが構築されれば、世界中で利用されることが期待される。

 

キーワード
Pollinator 送粉者
植物の花粉を運んで受粉させ(送粉)、花粉の雄性配偶子と花の胚珠を受精させる動物のこと。花粉媒介者(かふんばいかいしゃ)・授粉者(じゅふんしゃ)・ポリネーターともいう。送粉者によって媒介される受粉様式を動物媒と呼ぶ。(Wikipedia

Andrena parnassiae アンドレナ・パルナシアエ
ミツバチ上科に属する。希少種。湿地帯の顕花植物を訪花する。(Discover Life

Parnassus パルナッサス
湿地帯に分布する植物の一種。(Plantlife

 

Study: Meet Lucy, NASA's Deep-Space Robotic Archaeologist. New York Times. Intl. Weekly. October 31, 2021

タイトルは、「太陽系の進化の謎に迫る。NASAの深宇宙無人探査機ルーシー打ち上げ」。

NASAは、木星の軌道上にある小惑星群の調査のため無人探査機を打ち上げた。この小惑星群はトロヤ群小惑星と呼ばれ、太陽系内で最後の未調査の小惑星地帯である。今年の10月16日に打ち上げられたこの無人探査機は、ルーシーと名付けられ、深宇宙(太陽系外の宇宙空間)の考古学的な調査をする無人探査機である。太陽系の成り立ち、惑星の軌道の決定、地球の生命の誕生の謎に対する答えを探求する。

・6年間の巡航を経て、ルーシーはトロヤ群小惑星のうち7個の小惑星に接近する予定である。木星の公転軌道に滞在し、小惑星の表面の地質、構成物、密度、構造などを調査する。1世紀も前から天文学者らは、小惑星を発見するごとに、ホメロスの「イーリアス」の英雄の名前を一つずつ付与してきたが、10,000個近くある小惑星の数の多さから、「トロヤ群」と一括して呼ばれるようになった。

・ミッション名のルーシーは、320万年前の類人猿の化石に由来する。この化石が人類の進化の謎を解明する手がかりとなったことにちなんで、探査対象であるトロヤ群小惑星が太陽系初期の歴史を保存する「惑星形成の化石」であると考えられているからである。NASAの研究者は、エジプトのピラミッド研究を鑑みて、「太陽系の考古学研究」と呼ぶ。太古の建築物や埋蔵品からピラミッドの成り立ちを解明したように、小惑星より太陽系の成り立ちを解明することを目標に掲げている。

・太陽系形成は、30年前は比較的単純に考えられていた。すなわち、原始惑星円盤が形成され、徐々に物体が集合し、過密化する。それらが、塊となったのが太陽系の8個の惑星(当時は冥王星も含む)として、現在の各公転軌道に並んだと考えられていた。しかし、天王星海王星の公転軌道は、この理論では説明がつかなかった。

・この矛盾を解決する理論として誕生したのが、「ニース理論」である。この理論によれば、木星土星といった巨大惑星はかつて現在の公転軌道よりも太陽に近いところで形成されたが、初期の木星土星の公転軌道が乱れた結果、やがて遠い軌道へと移動していった。木星土星の軌道が広がったように、天皇星と海王星も外側へと移動したと考えられている。惑星の軌道が広がる際に、太陽系内の小さな惑星を捕獲した。彗星や小惑星が外太陽系に運ばれたり、天の川まで投げ出されたものもある。

・こうやって捕獲、運搬された彗星や小惑星の一部がトロヤ群小惑星にもなったと考えられている。したがってトロヤ群小惑星には、46億年前の太陽系の原始惑星円盤のチリやガスを含んでいることが期待される。

 

キーワード

Lucy ルーシー(探査機)
5つの木星トロヤ群小惑星を探査する計画、あるいはその計画における探査機の名称である。ルーシーは、M型小惑星プシケ探査計画のサイキと共に、2017年1月4日にNASAディスカバリー・プログラムに選定された。ミッション名は、有名な類人猿化石、ルーシーに由来する。これは、探査対象であるトロヤ群小惑星が太陽系初期の歴史を保存する「惑星形成の化石」であると考えられているからである。一方、類人猿化石のほうのルーシーは、ビートルズの楽曲「Lucy in the Sky with Diamonds」にちなんだものである。(Wikipedia

Trojan asteroid トロヤ群
惑星の公転軌道上の、太陽から見てその惑星に対して60度前方あるいは60度後方、すなわちラグランジュ点L4・L5付近を運動する小惑星のグループである。またこれにちなみ、L4・L5の両ラグランジュ点は特に「トロヤ点」と呼ばれる。(Wikipedia

Nice model ニースモデル
太陽系の力学的な進化を記述する理論モデルである。この理論モデルが提唱されたコート・ダジュール天文台が位置するフランス・ニースに因んでこの名で呼ばれている。また、英語の「ナイス」(良い) ともかけている。このモデルでは、原始惑星系円盤が散逸してしばらくしてから、初期はコンパクトな軌道配置にあった巨大惑星が現在の軌道に移動したことを提唱している。惑星の軌道が大きく移動したという点で、太陽系形成の従来のモデルとは異なっている。この惑星移動は、過去の太陽系で発生した現象を説明するためのシミュレーションで用いられている。例えば、内太陽系における後期重爆撃期、オールトの雲の形成、エッジワース・カイパーベルトの天体や海王星木星のトロヤ群、海王星の重力の影響下にある多数の共鳴外縁天体を含む太陽系小天体の存在の説明などである。(Wikipedia

 

Study: ハリフェス:魚吹八幡神社 三代目坂上屋台

新調した坂上屋台(三代目)の一部です。完成形は観ることができませんでしたが、狭間彫刻は、二代目からテーマ変更点は、「道真公霊を慰める・尊意の場」から「文覚上人荒行」へと変わっています。狭間と正隅は、地元旭陽地区(網干区高田)の前田木彫刻によるものです。

水引幕は、二代目も三代目も赤地のものです。二代目は播州の絹常によるものです。三代目は、情報がまだ見つからず調査中です。

ちなみに、赤地の水引幕と言えば、富嶋神社の黒崎屋台を思い出します。こちらは、京都の日繍[日本刺繍工業]によるもので、一ノ谷合戦之図が描かれています。

ある情報筋によれば、三代目坂上屋台の水引幕も黒崎と同じ、京都の日繍[日本刺繍工業]によるものという話も聞いています。そう言われると、同じ職人もののような気もしてきました。

 
 
 
 
 
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