Books:  ドストエフスキーとの旅ー遍歴する魂の記憶 / 亀山郁夫 (2021)

 

ドストエフスキーという文字はこのブログでも何度も入力しています。私も、大学時代になぜか出会ってしまった作家です。以来、ドストエフスキー関係の評論や解説書を読んで理解を深めようとしてきました。新訳を出された亀山郁夫氏の著作物は、いままでもかなり読んできました。

私がドストエフスキーが好きなのは、小説そのものに興味があると同時に、そこから本質的なものを読み解いて日常生活の出来事を分析する目を養いたいという気持ちがあります。亀山氏がキーワードにしている概念がいくつかあります。「父殺し」「黙過」「使嗾」「二枚舌」です。「父殺し」とは、子が父を殺すというそのままの意味も含みますが、権力・家父長制を崩壊させるメタファーでもあります。「黙過」は、「知っていながら黙って見逃すこと」です。「使嗾(しそう)」とは、「そそのかし」のことです。「二枚舌」とは、権力者に嘘をつくことです。ドストエフスキーの小説を読むにあたり、この3つの概念の理解が重要な鍵になります。概念的な意味での父殺しは、精神医学者のフロイトが提唱したエディプス・コンプレックスとともに説明されることが多いです。親子関係、会社や組織での上下関係など、様々な場面にその構図を当てはめることもできます。「黙過」は、やはり「いじめ」の現場でしょうか。ハラスメントなどもそうですが、「見て見ぬふり」というのは、人間が抱える闇の部分でもあります。「使嗾(そそのかし)」も、人間の闇の部分のひとつでしょう。相手をその気にさせ、良くない方向へと仕向けるのですが、そこには相手の劣等感や競争心を刺激し、敵対心を煽るという心理的な操作や駆け引きがあります。「二枚舌」は、本音と建前を使い分けることだけでなく、旧ソビエトの独裁下に生きた詩人や芸術家の権力に対する賛美のレトリックや独裁者の一体性のことです。社会でも政治や外交の場面でもこういった巧妙な芸を見せつけられる場面が多々あるでしょう。

ドストエフスキーの小説では、こういった人間の闇の部分が描かれています。かつては、教養の小説として一部の大学生の間で読まれていた格式高い小説ではあるのですが、その内容が人類普遍のものであるためか、いまだに読み続けられています。最近では、漫画や映画で人気を博した「デスノート」、10代の若いファンが深掘りする形で、亀山氏の新訳「罪と罰」を手にしているほどです。教養として哲学や文学を学ばなくても、感性の鋭い若者は本質を見据えているということでしょうか。人間の闇の部分を描くことで、「善とは何か」、「神とは何か」、「理想の社会とは何か」と考えさせようとしたのが、作家ドストエフスキーです。そこに彼自身の耐え難い幼少期、少年期、数奇な運命に翻弄された青年期・壮年期があります。

亀山氏の自伝的に綴られた本書を読み感じたのが、文学研究者というのは、スピリチュアルだということです。その意味は、日常の様々な出来事と自分の記憶、仮説、感情との結びつけの行為に長けているということです。ふとした出来事をきっかけに、深い思索に耽り、熟考し、研究対象の作家の当時の思考や想いに自分を重ねていきます。自分とは関係のない事件でも、自分がやったように感じる、自分が当事者(加害者・被害者)として、そこにいたように妄想(想定)してしまい、自責の念に苛まれる。そういった共感力の強い研究者です。

いまでは一流の研究者の亀山氏ですが、学生時代の卒論の指導教官はロシア文学の権威、原 卓也先生でしたが、使嗾(そそのかし)を中心テーマに書き上げた卒論が指導教官からはあまり高く評価してもらえず、亀山氏はその挫折感をきっかけに一度、ドストエフスキー研究とは決別しています。当時日本でも流行っていたサルトルの描くようなマッチョな実存主義とは肌が合わず、全共闘とも距離を置き、自分は感傷的で、ロマンティストすぎたと語ります。

「父殺し」、「黙過」、「使嗾」、「二枚舌」は亀山氏が10代の頃に漠然と抱えていたものであり、若いうちはうまく言葉では説明できなかったようですが、それが研究を進めるうちに、ふとしたきっかけで、パズルのピースがはまるように腑に落ちる瞬間を経験したといいます。自分得たインスピレーションに対してまっすぐに向い続け、研究対象の作家・作品にもまっすぐに向かい合い続けた結果、恩寵のごとく天から降ってくるような感じでしょうか。それには不断の努力あればこそでしょう。