Books: ジョジョの奇妙な冒険 第5部 黄金の風 / 荒木飛呂彦

 

ジョジョの奇妙な冒険」とは、私が中学生時代に愛読していた漫画です。当時は、第1部〜第3部でした。しかし、高校に進み、第4部が日本の仙台市が舞台になったのと、漫画に興味がなくなったのとで途中で読むのをやめていました。それ以降、気にはなっていたけれど、手が出ませんでした。当時の私にとっては「ジョジョ」は、現実逃避であり、海外を舞台に繰り広げられる「奇妙な冒険」は、一種の心の癒しでした。

大人になってから、ジョジョを愛読する同世代の友人から「続きも絶対読むべきだ」と勧められてはいたものの、自分の精神が退行してしてしまうような気がしてあと一歩を踏み出せませんでした。しかし、よくよく考えてみると、作者の荒木飛呂彦先生は、自分よりもずっと年上で、伝説の人物です。地下鉄サリン事件も、阪神淡路大震災も、東日本大震災も、同じ日本の土地にいながら、直接的・間接的に経験あるいはニュースで見ているはずです。

表現の形は違えど、精神に与えられた衝撃は同じかも知れません。多くの人は、芸術という形で多くの人に感動が与えられるような表現はできないだけかも知れません。このように、芸術表現という特殊な能力を持ってして何かをクリエイトする「芸術家」と呼ばれる人のその特殊な能力は神から与えられた祝福でしょう。心の代弁者であり、逆境に苦しむ人々にパワーを与える存在です。

第5部は、荒木飛呂彦氏にとっても、大きな意味を持つ作品だったとご本人も語っておられます。発表期間は、1995年52号 - 1999年17号。荒木氏が、35歳頃〜39歳頃の間に発表されました。この時期から、刊行媒体の少年ジャンプ編集部側からの規制の縛りがキツくなったといいます。暴力シーン、差別表現、性的描写、犯罪につながるようなリアルな描写など、ジャンプ編集部が掲載漫画の自主規制として作者側に色々な注文をつけ始めたのです。このことで、荒木氏も、「善」と「悪」の題材にするストーリーを描く作品を創作しようとしていたため、表面的な規制にはなかなか納得できず、かなりの葛藤があったと後に述べています。それでも、描き切る精神力の強さは、やはり神がかっています。

第5部は、「哀しみ」がキーワードになっています。主人公は、7人いて、「集団劇」として描くという新しいチャレンジでもありました。

舞台は2001年のイタリア、DIOの息子「ジョルノ・ジョバァーナ」(ジョジョ)が、ギャング団「パッショーネ」で憧れのギャングスターへと登りつめて行く姿と、彼の仲間との逃避行を描いた群像劇。親、家庭、社会、組織といった、何かの因果応報で、そこに生まれ、育ち、生活する「故郷」なるものが、それぞれの少年少女にはあったのですが、その「故郷」を裏切らざるをえないという精神的な大きな試練があります。その「故郷」がとても大きく、またとても強い存在なら、それを裏切り、自分の「運命」を変えることなんて、できるでしょうか。いや、そのままでいいと思うのが、ある意味、賢明な人間ではないでしょうか。7人中ほとんどが軽犯罪・重犯罪に手を染めてしまっていますが、実は、7人とも正義感が強く、仲間を守りたいという友情も人一倍強いです。何が善で何が悪なのか、誰が仲間で、誰が敵なのか、ジョジョ特有のカオスに近い状態に常に晒されます。そんな時、常に彼らは、自分の心の奥底の「正しい心」の声に従います。正しいと思うことを実行した先に、「幸福」があると信じるようになるのです。「自分の運命は変えられる」というのが荒木飛呂彦からのメッセージかもしれません。

ジョジョの漫画には、幽波紋というスタンドがいます。「スタンド」とは「パワーを持った像(ヴィジョン)」であり、持ち主の傍に出現してさまざまな超常的能力を発揮し、他人を攻撃したり持ち主を守ったりする守護霊のような存在です。

以前に、こんなことを言う人がいました。「もし幽霊に出会ったなら、それは幽霊は人間が化けたものだから、会話でなんとか理解し合うことができるはず」「でも、もし宇宙人に出会ったなら、言葉もジェスチャーも通じないだろうから、絶望するしかない」。このようなことを言って、その場にいた人を納得させて悦に入っていた人がいました。私は、その時、違和感を感じました。なぜなら、「幽霊は、人間が化けたもの、宇宙人は人間以外の地球外の生命体」と言う大前提を共有した上での会話で、発言自体でかなり定義が狭く設定されてしまっているのです。言い換えれば、「言葉の通じない人には絶望するしかない」と言うことになります。ほとんど何も発言していないに等しく、極端に物事を難しく言ってみただけです。漫画やアニメを見ずに生活していると、こんなに頭が硬くなってしまうのだと気がつかされた場面でした。自分の姿を見たようで、ハッとさせられました。

話はそれましたが、「スタンド」こそ、得体の知れないものであり、言葉の通じないものかも知れません。スタンド使いにより操作されているものの、スタンド使いもしくはスタンドは鋭敏なセンサーにより、周囲の環境を把握した上で、超能力を使います。例えば、触れた物体に生命を与える。逆に老化させたりする。時間を消し飛ばす。など、生命現象に影響を与えるものから、ある物質の状態を変化させたり、構築しなおしたりするものもいます。

多種多様な「スタンド」の能力ですが、会話とかコミュニケーションで分かり合えるというレベルではなさそうです。その意味では、宇宙人的です。ただし、操っているのは人間(スタンド使い)ですから、その動きや技には本人の思考(マインド)の癖が反映されてしまいます。スタンド自体は宇宙人的でありながら、生身の人間(スタンド使い)から遊離したという意味では幽霊的です。第5部では、遠隔型の自律した(暴走した?)スタンドも出現し、本人の意思からは独立した変異種みたいなものもいますが。

敵スタンドの攻略には、スタンド使いである人間が頭を使い、五感を鋭くし、精神力も鍛えなければなりません。第5部では、無敵に思えるスタンドが次々に出現して、ジョルノ・チームの行く手を阻みます。敵スタンドの能力を逆手に取って、カウンターメジャー(対抗戦略)として、自滅させることがあります。相手の勢いをうまく利用して倒すところ、日本の武道に通じるものがあります。

アニメの世界では、生き物とそうでない物と境界線が曖昧で、人間と動物、人間と機械・ロボット、人間と幽霊や宇宙人、あるいは特殊な存在、天使と悪魔、渾然一体となった世界が描かれます。まさにanimateされた(生命を吹き込まれた)ものたちの物語です。一時期は、SFと言うジャンルで呼ばれていたのかも知れませんが、今の漫画・アニメはその意味ではSFチックな要素が重要な特徴づけをしています。大人の世界では、人と動物、人とロボット、国内出身者と外国人と、線引きが多すぎる世界ではあります。そういった線引きというのは、便宜的な物であり、本質的には線引きなんてないのかも知れません。その線引きに違和感があるような少年・少女のような純粋な心を持った人が、こういった素晴らしい世界を描いてくれるのかも知れません。ジョジョを描くという特殊能力を持ったスタンドを操る荒木飛呂彦先生。すごいです。

ちなみに、第5部はイタリアが舞台ですが、荒木氏は、グルメなことでも有名ですが、時々食事のシーンがあり、美味しそうに会食しているシーンは、確かに食欲そそられます。どこかでみたようなシーンだなと思ったのですが、ゴッドファーザーのファミリーの会食のシーンに似ているように思いました。

 
 
 
 
 
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