TV:NHK 340年ごしの和解〜親鸞の血脈を引く二つの寺

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今年5月、大阪にある二つの寺が歴史的な和解を果たした。340年前の確執と決別はどのようなものだったのか。そして、和解に至るまで、どんなドラマがあったのかを追う。今年5月、大阪にある二つの寺が歴史的な和解を果たした。もとは共に西本願寺に所属していたが、340年前、確執が起こり、一方の寺が東本願寺に移った。背景には、本願寺の東西分立から続く大きな対立の構図があった。時を経て、二つの寺の交流が始まり、和解が実現。その証として、ある儀式を共同で行うことになった。それは、一方の寺が持っていた親鸞蓮如の骨を分け合う荘厳な儀式だ。和解に至るまでのドラマを追う。

もともと一つの宗派だった浄土真宗が、お西とお東に別れたのは、関西圏で多くの信者を抱え、経済的にも豊かで、武力も持っていた一大勢力であった浄土真宗を、戦国時代に織田信長が警戒し、和睦を申し出たり、豊臣秀吉が和睦派と強硬派の内部の分裂を利用して和睦派の”お西”を支持し、徳川家康が強硬派の”お東さん”を支持したりという経緯があったようです。とにかく、彼らのエネルギーを外部へ向けるのではなく、内部で対立させることで、その力が抑制されてきた、というのが天下統一を目指す大名らの政治的な思惑だったでしょうか。

大阪八尾市にある恵光寺は、江戸時代には多くの門徒に支持され、河内一円と大和に百ヶ寺の末寺を擁しましたが、ある事件により(一説には久宝寺御坊顕証寺寂淳法師との宝物争いによる)、東本願寺派真宗大谷派)に移るのを余儀なくされ、衰退の一途を辿ることになります。事件の発端となった、同じく河内(現在の八尾市)にある西本願寺派顕証寺に対して、「敬して遠ざける」というスタンスを取り続け、この事件のことを言い伝えてきました。

今回、この両者の、お東の寺とお西の寺とが340年越しの和解をしたということです。恵光寺の住職は、「宗教に不信感が増す現代社会で同じ宗派の寺同士で歪みあっていても仕方がない」「門徒さんのお話を聴く立場なのでひしひしと感じるが、人々はみんな拠り所を求めている」と発言しています。わりあい、柔軟な考え方をする人のようです。一方、顕証寺の住職も、その世界ではとても責任ある立場の僧侶で全国の信者からも人気もあります。この方も、柔軟な考え方をお持ちであるのが見てとれました。

未来志向の両者が揃って「和解」というものが成立したということです。

正当性を重視する宗教においては、さらに、浄土真宗親鸞からの血脈も受け継いでいますから、「自分の寺が一番だ」という意識が強まる可能性があります。それは、寺同士の切磋琢磨につながるメリットもありますが、逆に、戦国時代のように内部抗争を外部に利用されたりする恐れもあります。

「敬して遠ざける」、「内部抗争は外部の人間にとっては蜜の味」「人々はみんな拠り所を求めている」が、今回私がピンときたキーワードです。特に、「敬して遠ざける」は、場合によっては素晴らしいスタンスかも知れません。相手をぞんざいに扱ったり、悪口や陰口を言うのではなく、相手を尊重し、最低限の礼儀と敬意を示しつつも、深く交流しない、という意味として解釈しました。最終的には「和解」という形となりましたが、和解前からも、素晴らしいスタンスを貫いてきた恵光寺の代々の住職さんのスタンスから学べることがありそうです。他人を責めるのではなく、まずは自分を見つめ直すという仏教の教えに従ったのかも知れません。