兵庫県たつの市神岡町にある「兵庫県手延素麺協同組合・揖保乃糸資料館 そうめんの里」に行ってきました。全国で一番製造量が多いのが、兵庫県手延素麺協同組合です。製品のうち、上級品(赤帯)は全生産量の約80%を占めています。
思いのほか、来訪客が多くて驚きました。レストラン「庵」は待ち時間が必要なくらい賑わっていました。
そうめんの歴史は、1,300年前、奈良時代に中国から伝わった「さくべい」というお菓子が原型と伝えられており、800年くらい前に、今のような「そうめん」として食べられ始めたと考えられています。
古代、遣唐使により伝えられた奈良時代では、索餅(さくべい)は、宮中での食べ物で、天皇が家臣に与える特別な料理、いわば、「おもてなし料理」でした。また、7月7日に食べると疫病にかからないと言い伝えられていました。
その後、中世、鎌倉時代になると、中国で「さくべい」から素麺の形に進歩し、禅宗の僧侶によって点心(軽い食事)として再度日本に輸入されます。徐々に武家社会へと広まりますが、まだ庶民の食べ物ではありませんでした。
近世になって、ようやく素麺は庶民のものとなり、江戸文化の影響を受けて広がりました。一般家庭で日常的に食べられるようになったのは、約100年前ということになります。これも意外ですが、高級品だったわけですね。今でもいい値段しますが。
播州地方での素麺の由緒としては、太子町の斑鳩寺に残る寺院日記の1418年9月18日の条に、初めて「素麺」の文字が出てきます。宍粟市一宮町の伊和神社に残る祝言文書には、1461年に素麺料理をした記録が残っています。
室町時代には、すでにそうめん作りの専門職人たちがいたことが確認されています。使用していた道具は、現在とほとんど変わらないと言われます。ちなみに、現代では、手延べ素麺技能士は国家資格だそうです。
播磨地方でなぜ素麺作りが発展したかと言いますと、その材料となる揖保川の水、赤穂の塩、周辺地域産の小麦が揃っており、気候も冬に晴れる日が多く素麺作りに都合がよく、農閑期の内職として発展しました。
そうめんの里では、エントランス付近で、小引き・小分け・門干しの実演を観ることができます。
伝統的な製法では、素麺の製造は、朝早くから始まります。現代では、一部は機械化されておるようですが、基本的な工程は昔と変わらず、専門技術を有した職人による手作業です。
1. こね前:小麦粉と塩水を混ぜて捏ね合わせることで、生地を作る。
2. 板切り:生地を幅10 cm、厚さ5 cmの帯(めん帯)にして桶に巻いていく。
3. 小より:めん帯をさらに細い紐状にしながら、綿実油をつけていき、3時間ほど寝かせる。
4. かけば:室箱(おも)と呼ばれる木箱に入れて寝かせる。
5. 小引き:50 cmほど引き延ばす(試し引き)。
6. 小分け:室箱から出して140 cmまで延ばす。
7. 門干し:はたと呼ばれる道具にさし、少しずつ延ばしていき、200 cmまで延ばす。2本の棒を巧みに操ることで、麺同士がくっつかないようにする。
8. 切断:よく乾燥した200 cmの素麺を19 cmの長さに切る。
9. 計量・結束・箱詰め:切ったそうめんを50 gずつにして、帯を巻いて木箱に詰める。
10. 検査:金属探知機などを通して束ごとに検査を行う。箱ごとに、検査指導員により、麺質(色・香り)、麺線(細さ)、重さ、仕上げ、麺水分などが基準に適合しているかなど、厳しい格付け検査が行われる。
11. 倉庫で熟成:組合の倉庫で寝かせる(熟成)。
伝統的な製法では、入庫までに熟成の回数は計5回です。グルテンの構造の変化を起こさせるものと思われます。
ちなみに、素麺のグレードに古(ひね)と呼ばれるものがあります。専用保管倉庫入庫後に、じっくりと熟成させたものです。約1年間熟成させます。この工程中に、そうめんは、高温・多湿の梅雨時期に小麦粉内に含まれる酵素が働き、そうめん内の脂質が変化していきます。これがそうめんのデンプンや蛋白質に影響を与え、そうめんのコシや舌ざわりがさらに良くなると言われています。この現象のことを「厄(やく)」と呼んでいます。この「厄(やく)」を経たものが、「古」です。
素麺を保管する木箱は、18 kgの荒箱と呼ばれたりしますが、木の香りが少なく、吸湿効果に優れたモミの木が使用されます。古のそうめんは、木箱での熟成に限定されています。
参考: