Books: 播磨人の気質を探る / 播磨学研究所(2007)

 

 

本書、中元孝迪氏の講演「播磨「善人・悪人」ランキング」のための事前調査によれば、播磨地方の歴史上の人物で善人ベスト10と、悪人ワースト5が紹介されています。

善人ベスト10

1. 赤松円心と悪党
2. 池田輝政
3. 大石良雄
4. 黒田官兵衛
5. 河合寸翁とその一族
6. 宮本武蔵
7. 飛鳥井雅古
8. 別所長治
9. 滑甚兵衛
10. 千姫・お夏・高尾太夫

 

悪人ワースト5

1. 羽柴(豊臣)秀吉
2. 酒井忠績
3. 松平明矩
4. 森岡昌純
5. 浦上宗村

 

播磨の祭りにも刻まれる嫌われる人物のワースト1位、「羽柴(豊臣)秀吉」について少し関連箇所を紹介します。

「灘のけんか祭り」東山屋台紋「千成瓢箪

松原八幡神社の秋季例大祭、通称「灘のけんか祭り」では、灘の氏子東山の屋台紋が「千成瓢箪」である由縁も有名な話です。

かつて羽柴秀吉社領を減らされ、神社内での生活が困難になった松原八幡神社の神役人の多くが東山村に移り、百姓をしながら祭儀の際には役目を果たしたと伝えられます。

他の氏子屋台を同じく、菊紋の使用は皇室の御稜威を憚り改めることとなった際に、豊臣秀吉の馬印に因み12の瓢箪を菊花弁に見立て、何とか菊紋を残そうとしました。

地区神役人の知恵と、かつての屈辱を忘れないようにという反骨精神の両方が象徴されています。

例大祭にて、露払いを務める松原獅子屋台の囃子には、

「若(わか)ノ松(まつ)勢(せ)エ儘(まま)ソラ サノ栄(さか)
世々(ようよう) 我(わ)モ招迎(しょうげ)ヤ 面白(おもしろ)ヤ
汝(なんじゃ)納(のう)俵担(ひょうたん)ヤ サア 越頭(えっと)栄(えい)

この太鼓の音は1996年環境庁の「残したい日本の音風景百選」に選ばれています。

「なんじゃ のう ひょうたんや」の部分に「瓢箪(秀吉の馬印)なんか大したことない」とも聞こえます。

他の氏子屋台においても、秀吉の立身出世の物語や太閤記を題材にした彫刻のテーマが少ないのも納得できます。荒川神社の井ノ口屋台の「湯沢山茶くれん寺」は井ノ口ゆかりの腰掛け石や当時の民衆の驚きを示したものでしょうし、秀吉と対立を深めた佐久間玄蕃盛政の「秀吉の本陣に乱入」の狭間彫刻がいくつかの屋台で確認できます。

一方、大阪や神戸の地車においては、秀吉物は少なくないです。「日吉丸、矢矧橋にて蜂須賀小六と出会う」「秀吉尼崎の危難〜秀吉の味噌摺り坊主」「大徳寺焼香の場」「太閤記、「賤ヶ岳の合戦」、「加藤虎之助、山路(正国)将監を討つ」「毛受 (勝照) 勝助、柴田勝家に替わり討死」「加藤清正の虎退治」「難波戦記ー大坂冬の陣・夏の陣」などがあります。


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橘川真一氏による講演「播州文人列伝ー英知と反骨の系譜ー」では、播磨が輩出した学者について紹介がなされています。

播磨地方では、江戸後期、非常に教育が盛んであったと言われます。藩校は、県下に30あったうちの17が播磨です。郷学や私塾は44もありました。寺子屋は448もあり、県下の寺子屋のうち大体半分ぐらいは播磨が占めていました。例えば、幕末・明治時代の偉人、歴史学者三上参次も、姫路の砥堀村(とほりむら)(姫路市大字仁豊野・砥堀)に生まれ、こういった教育の中で育ちました。
寺子屋の多さからもわかるように、江戸時代〜幕末・明治時代に多くの学者を輩出したのは、よい教育の環境が整っていたためと考えられています。
そして、寺子屋と縁の深い神様は天神さんです。
天神さん、すなわち藤原道真公の神社は、梅鉢の神紋でも一目でわかります。道真公を祭神とする天神社・天満社は、曽根天満宮、大塩天満宮、恵美酒宮天満神社、浜の宮天満宮、津田天満神社、英賀神社、廣畑天満宮などがあります。
平安時代に生まれた藤原公は、その類まれなる才能から神童と称され、青年期には文武両道で傑出した実力でその名を馳せ、壮年期には宮廷の右大臣として善政により当時の日本を立て直しに貢献し、国家に尽くしました。しかし、それを妬んだ宮廷の左大臣藤原時平らの政敵の陰謀により失脚させられ太宰府に左遷させられました。
ところが、道真公の没後、都では疫病が流行り、かつての宮廷の政敵の関係貴族らに不幸が続きました。また清涼殿が落雷受け火災が起き多くの死傷者が出ました。
このことを当時の人は菅原道真公の祟りと畏れ、道真公を天満天神として神格化することでその怨霊を慰めることになりました。
やがて道真公が学問に長けていたことから「学問の神様」として各地の神社で崇められるようになりました。
恵美酒宮天満神社姫路市飾磨区)は、元々は戎さん(漁場の神)を祀っていました。菅公にまつわる由緒を持つ神社でもあります。道真が太宰府への途次、津田の細江に船を泊め、一夜を過ごした言い伝えがあります。道真に接した飾磨津の人々は、誰しも道真の人柄を尊いものに思い、いざ出発となると、みんなが別れを惜しみました。
しかし、道真の人徳に感じ入ったのは人間ばかりではなく、草木も菅公の「徳風」になびきました。道真の船出の際にはアシの葉先が一斉に太宰府の方向、すなわち西へと傾いたとか。
同じく飾磨区の浜の宮天満宮は、かつては宮町に建てられていましたが、慶長年間に池田輝政米蔵を建てるため現在の地に移したといわれています。
かつて社地建立に際して尽力した年配の名医が天神さんを厚く信仰していたとの言い伝えがあります。
津田天満神社は、創建は平安時代に遡るとされ、そもそもは大歳明神(農耕の神)を祀る社であったといいます。かつては現在より東の、船場川の思案橋西側にありました。
津田天満神社にも、菅公にまつわるエピソードがあります。道真がこの地に上陸して休息を取ろうとした際に、腰を下ろそうにも、あいにく敷物が見当たりませんでした。気の毒に思った船夫たちは、考えた末に船のとも網を渦巻き型に巻いて即席の円座を作り上げて差し出し、道真公の尻に敷いていただいたとか。
また津田天満神社には昭和の初期まで「榊配り」という神事がありました。道真公が細江に上陸した際に、現在の加茂神社にまず参詣しました。出発の際には、榊の木で作った杖を地面で突き刺しました。道真公の出発後数日経つと、その杖から青々と葉が茂ったという。この伝説にちなんむのが「榊配り」で、12月25日に行われていました。翌年1月15日には小豆粥を炊くときには、この榊を一緒に燃やし、枝が大きなほど、豊作になると喜ばれました。
飾磨区の隣接する恵美酒宮天満神社、浜の宮天満宮、津田天満神社は、菅原道真公の薫陶を受け、勧請して祀っています。
実際に、菅原道真公をまつる神社は、全国で1万社以上あり、お稲荷様、八幡様、神明様に次いで多い数となっています。信仰拡大の背景には、江戸時代に普及した「寺子屋」の存在があったと言われます。庶民たちの学問施設だった寺子屋には、学問の神様として菅原道真公=天神様がまつられていたそうです。寺子屋の普及とともに、天神信仰も庶民化が進んでいったと考えられています。