Books: Bhagavad Gita Essentials / Vishwananda, Bhakti Marga (2020-2021)

 

ある人とやり取りすることで、自分を客観視できることがあるものです。Lineのやり取りを振り返ってみると、自分ってこんな風に考えてきたんだなとわかります。それは、相手がバックグラウンドの違う人であればなおさらで、その業界の常識や暗黙の了解、また専門用語など、それが何なのかをわかりやすく説明する必要があります。人とのコミュニケーションは、ある意味では自分との対話かもしれません。

例えば、ヨガの世界では、「マインド、マインド」って言います。この定義も案外難しくて、一般的には、「意思」、「思考」、「気持ち」あたり訳語が当てられます。ただし、「ハート」や「自己(セルフ)」という言葉も同時に存在しています。「マインド」はヨガの世界では、あまり信頼できるものではなく、幻影を見せられておるようなもので、真実を見据えるためには、日常生活で不純化したマインドを純化していかなければなりません。そのための行為のひとつとして、身体を動かし、体勢を取り、呼吸を整え、日常の環境で様々な外的な刺激に振り回されている五感を統御し、瞑想に入っていくクリヤ・ヨガなどあります。

普段の生活でも「心から想う」と本人は考えていても、それはその人の思考の癖である恐れもあります。「神様のお告げがあった」と思っていても、それは、本人のマインドが自分の都合のいいように変異してしまっており、妄想や洗脳であることもあります。そのように考えると、何を持ってして真実とするのかは、非常に難しいです。客観性のない世界で、科学分析装置で測定したり、定性・定量化することも難しいのかもしれません。本人がそうだと信じたなら、それには誰も口出しはできない、神のみぞ知る境地です。ただし、逆に言えば、「神」には見えているのです。

私は、日常生活では、マインドは必要と思います。お金の計算、目的地へと辿り着くための経路、周りの人との会話、外国語を理解するための語学力など、ほとんどの場面において、頭を使わないと高度情報社会では対応し切れません。

「日常生活ではマインドを適切に使う」。一方で、「真実はそのマインドでは捉え切れないので純化していく必要がある」というのが現在のところの個人的な考えです。

バガヴァッド・ギーターはインド哲学やヨガに興味のある人ならみんな勉強する(すべき)聖典(書物)です。宗教・国籍に関係なく読まれています。18章あります。

私も、大学院や社会人になって初期の頃に、森岡正博先生や南直哉禅師の著作を読み、自分の問題意識を整理に助力いただいた記憶があります。思春期の頃に読んでいた、カミュの「異邦人」やドストエフスキーの「罪と罰」の主人公と自分を重ねて青白い炎を燃え上がらせた少年の自分を客観的に見つめることができるようになった気もしました。

しかし、読書を通じて他者の物語を生きるように読み進める共感型の読書癖はそのまま自分の癖として残り続けました。その共感癖は、インド占星術で、ラグナが蟹座で、月が同居していることから、「月」の性質が強く出てしまい、「良くも悪くも環境からの影響を受けやすい」と理解しました。

「バガヴァッド・ギーター(上村勝彦訳)」を読み、「アルジュナは自分だ」と共感しました。そこで感じたのが、「実存か本質か」といった二元論に陥りがちな自分のマインドの危うさでした。

現在はヴィシュワナンダ師の本書「バガヴァッドギーター」、シュリ・スワミジの「マハーバーラタ」や「シュリマド・バーガヴァタム」を読んでいます。

また、毎週オンラインで「バガヴァッドギーター」全18章のサンスクリット語のチャンティングにも参加しています。18章通しでチャンティングすると、2時間半くらいかかります。参加者は、欧米やアジアなど様々です。欧州の大学の研究者なんかもおられます。

チャンティングはもちろんサンスクリット語です。単語はわかっても文章の意味まではまだわかりません。ですので、本書の英語訳と解説がついたものを使ってチャンティングしています。18章音読するのに、2時間半かかります。実家の法事のお経でも2時間半も唱えたことがありません。苦行と言えばそうですし、これもヨガのひとつといえばそうです。

私が月に一回通っている坐禅会では、「坐禅をしたからといって何かが得られるとか、自分が変化するとか、そういう甘い期待はしないでください」と言われます。

一方で、バガヴァッド・ギーターやバジャンのチャンティングについては、師匠は積極的に勧めておられており、直訳すると、「ものすごい、ご利益がある」とコメントされています。

坐禅とバガヴァッド・ギーターの違いは?と思いますが、私はこれは「嘘も方便」と思っています。どちらにも、ものすごいご利益があるはずです。でも、「何かを得たい、変わりたい、すごくなりたい」そういうマインドこそを見つめ直すべきというのが、坐禅会での日本人向けの教訓であり(日本人は良くも悪くも真面目すぎるので)、インドの師匠は、怠惰なマインドこそ改めて真面目に取り組むべきというのが世界中の人に向けての教訓なんだと思います。