私はヘヴィメタルが好きなので、クラシック音楽にも距離を感じません。と言いますのも、例えば、X JapanのYoshikiさんがいい例ですが、ヘヴィメタルをする演奏家は、元々はピアノやヴァイオリンを習っていた人が多く、音楽の素養がある場合が多いです。欧州の場合は特にそうです。音楽性の幅が広く、楽器もマルチプレイヤーというのは珍しくないです。しかし、どこで道を踏み外したのか、ああいうラウドな音楽を奏でるようになります。楽曲の構成が起承転結があったり、エレキギターの音色がヴァイオリンのようだったり、アコースティックギターのアルペジオがバロック的だったりと、どこにでもクラシックの要素が散りばめられています。
ただし、村上春樹さんの場合は、ヘヴィメタルのような音楽はあまり好んで聴かれる感じではないです。小澤征爾さんとの対談でもわかるように、お勉強として聴かれている訳ではなく、先入観を持たずに音と向かい合っている様子がうかがえます。演奏家や指揮者の解釈や癖の違いを、敏感に聞き分けています。まるでドラマの俳優を評価するかのように、音楽家の人間性を観察しています。
案外、こういう意見って今のご時世、貴重と思います。専門家でないがゆえに、背伸びもせず、ネームバリューで相手を評価しない、一方で、マニア同士の変な論争にも首をつっこまない。専門畑でもマニア畑でもない人は、よほど自分の感性に自信がないと、自分の意見が間違っていないかと心配になるものです。しかし、それが本来の芸術との向かい合い方なのかもしれません。
ジャズのレビューでも、すでにその姿勢は見られます。もしロック好きなら、マイルス・デイヴィスやコルトレーン、チック・コリアあたりがすっと入りやすそうですが、村上氏にとっては、スタン・ゲッツが、「ザ・ジャズ」です。
ちなみに、ジャズ喫茶を経営していた頃はジャズを聴きすぎたそうです。結局、それなりに繁盛していたジャズ喫茶を閉め、小説家になろうと決心した村上春樹さんは、その反動で80年代にはクラシックとポップスばかり聴いていたそうです。ジャズについては一生分語り尽くしたとも述べています。
小説も、教養小説とかなら、ドストエフスキーやトルストイとかがお薦めされそうですが、フィッツジェラルドです。
もし村上春樹の小説が好きじゃないなら、私も、こういう本までは手を出さないのですが、やはり小説が好きですし、村上さんの人となりがいいなと思うので、色々探ってしまいます。
どこか大衆的だけれども、高尚とも言えない。浮世離れしてそうで、とても人間的。でも、やっぱり、フツーの人じゃないだって思います。
村上春樹の小説は音楽を聴いているようだと言われます。ジャズのようにとてもリズムカルでビールでも片手に、ビーチに寝そべって読みたい気持ちになります。しかし、そんなに軽いものなのいうと、とても深淵なテーマがあって、そのテーマにふとしたきっかけで主人公が巻き込まれてしまいます。ファンタジーでもありミステリーでもあります。ただ、サイコスリラーとかでもなく、猟奇的な事件が起こるわけでもありません。
レコード集めは、宿痾(しゅくあ)と述べる村上氏。きっと、普通の人には見えないものが見えるんでしょうし、聴こえないものまで聴こえているんだと思います。ジャズのスタンゲッツや小説家のフィッツジェラルドには自分を重ね合わせているような熱いものがありますが、クラシックに対しては、やはりエゴや計算した計算というものよりも、無欲さ無私のようなものを求めているように思います。
J・S・バッハの「無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ BWV1001-1006」は確かに素晴らしいです。この演奏に関しては、「ベスト」と評価されています。さらに、「無欲」「無我」と評価され、「弾いている人間がすっかり透き通って、向こうが見えてしまうみたいな感じだ。エゴがきれいに昇華され、純粋な音楽だけが残る・・・」と説明されています。まさに、「七十(しちじゅう)にして矩(のり)をこえず」が具現化された演奏です。
バッハの音楽自体がまだ音楽に宗教性が強かったのもありますが、個人主義の強まるロマン派よりは向かいあう対象は違っていたと思います。さらに時代が進み、ワーグナーの時代になると、宗教の枠組みを超えたような原始の神々の世界を描きます。
そうしたら、円熟の演奏ばかりを高く評価しているのかと思いきや、若気の至りが音楽的に絶妙に表現された演奏もお気に入りのレコードとして評価されています。