Books: 銀河鉄道の父 / 門井慶喜(2020)

 

門井慶喜著の直木賞受賞作「銀河鉄道の父」を早速購入して通勤途中に読んでいます。映画化されるそうですね。

宮沢賢治ではなく、主人公は賢治の父です。政次郎です。この政次郎という人物、仕事こそは質屋ですが、地頭のいいタイプで、仕事熱心であり、地方の名士として地域社会への奉仕活動にも熱心で、仏教にも造詣が深く、学問に対しても理解があり、教養人に対して敬意も持っています。いわゆる人徳者です。
この父にして、この子あり。と言った感じです。

子どもに対して、

「子供のやることは、叱るより、不問に付すほうが心の燃料が要る」

「われながら愛情をがまんできない。不介入に耐えられない。父親になることがこんなに弱い人間になることとは、若いころには夢にも思わなかった」

息子のため、忍耐を持ってして、見守ります。見守るというより、影の舞をします。質屋の経営ですから、「不作で苦しむ農民の弱みに漬け込で巻き上げたお金で、娘や息子たちを、いい学校に行かせている」と、村人から「守銭奴」と妬まれたりもします。

一方、宮沢賢治のイメージはやはり「純粋な心を持った少年」です。本書での賢治は親目線から描かれているので、なおさらに子どもっぽく見えてしまいます。今風にいえば、「困ったちゃん」です。病気がちで、学校でも悪戯をしてやらかすこともしばしば。研究所の実験補助として働いている際にも、急にお金が必要になったとお金をせびったりします。

宮沢賢治は親の反面教師なのか、影響なのか、法華経に傾倒します。そして、仕事は、幼い頃より鉱物が好きだったこともあり、盛岡高等農林学校で、土壌学を専門とする部長の関豊太郎の指導を仰ぎます。盛岡高等農林学校は、岩手大学農学部の前身ですが、当時は、岩手で農業の不作が続いていたことに対する日本政府の緊急措置のために作られた研究機関とも言われます。

しかし、以上のような親子関係であるなら、わざわざ父親を主人公に小説になんかする必要はないです。肝心なのは、政次郎は、ただの子煩悩でお金持ちの家の父親ではないことを読み取るのが、この小説の醍醐味と思います。

文字通り、息子・賢治の人生を生きた人物でもあります。「人生2度あるなら〜として生まれ変わりたい」そういう言葉を発する場合がありますが、小説ではそのようには書かれていないものの、まさに、自分と息子の人生を重ね合わせています。しかし今でいう、「親子一体化」とは違います。

それは、政次郎は、勉強もできたのに、望んでも上の学校には行かせてもらえず、質屋を継ぐ。知識欲は講習会を開くなど浄土真宗の勉強で紛らわせていました。家業には奉公したが、本当は、賢治のような人生を送りたかったに違いありません。あくまで立場は父親として接するのですが、マインドが賢治と一体化しています。一人の親としての親心と、一人の人間としての憧憬の間で、政次郎は揺れ動き続けます。しかし、言葉には出しません。寡黙を貫きます。病気がちな賢治に振り回され、学校や仕事の進路の決断のたびに、葛藤します。

宮沢賢治は、家業を継ぐため、質屋の窓口に立たされたりして仕事見習いをする時期もありますが、お客の巧みな嘘が見抜けず、たくさんのお金を貸してしまい、父親から叱られます。商売には向いていなかったのでしょう。

トシも賢治も、「青は藍より出でて藍より青し」と言えるほどに人格者(俗世間に揉まれていないと言いますか)で、その意味では父親を凌駕していました。特に、長女トシは全てにおいて卓越していたようです。賢治が、法華経に帰依していったことは有名な話ですが、愛する妹トシが病気で緊急入院し、賢治は必死に看護します。かつて父がやってくれたように。その時の会話の中で、童話作家になることを考えるようになります。トシを通して、自分の一側面に気づきを得ました。しかし、最終的には、トシを失ったことは家族には相当なショックでした。特に賢治はそれまで燻っていたずべての生き物の命への敬意のようなものが一気に溢れ出たのかもしれません。

この小説では、仏の道というものがキーワードになっているかのように読み取れます。僧侶にならずとて、仏のような人たちがいるのかもしれません。親は息子・娘の中に仏を観て、帰依するかのように育児や世話として奉公して行く。その行為によって、父親・政次郎は、何か自分の悪いカルマ(因果応報)から解放されていく。そんな流れがあるようにも思いますが、これは私の読み込みすぎかもしれません。

ここまで書くと、書きにくくなりましたが、母方の祖父を思い出しました。もちろん、ちょっと違うところもありますが、近いものを感じます。見返りを期待せず、無条件でなされた行為というのは、もしかすれば、いい意味での因果応報として、息子や孫の世代で結実するのかもしれません。