心の中にあるもの〜ドナルド・デイヴィドソン

What matters is communication, getting across to someone else what you have in mind by means of words that they interpret (understand) as you want them to.
重要なのは伝達であり,心の中にあるものをだれか他の人に受け渡すことである.しかも,あなたが相手に解釈(理解)されたいと思っているように相手が解釈(理解)するような語を使って,この受け渡しを行うことである
 - Donald Davidson (1917 - 2003, US Philosopher)

デイヴィドソンアメリカの哲学者.論理実証主義の経験主義的側面とクワインプラグマティズムによるその批判を継承しながら,形而上学的な色合いの濃い独自の体系的言語哲学を確立しようとした.岩波哲学思想事典より
★大人になると本音と建前をうまく使いわけたり,また見分けられたりできることが大切だといったようなことをどこかで聞いたような気もします.
日常会話でも本音と建前って見え隠れしてますよね.
例えば,たばこを吸っている人に対して,「健康に悪いよ」とか「ガンになるよ」とか「吸うのはいいけれど”みんな”に迷惑にならないようにマナーはきちんと守ってくださいね」とかという言葉が耳に入ってくる,もしくはそういった標語が目に入ってくることがあります.
これってどうなんだろう?って思います.僕の考えでは,これって建前じゃないの?って思います.
逆に本音は,「けむたい,臭い,たばこの火は危ないからやめて欲しいと”私”は思う」だと思うのです.
例えば,公共広告機構のCMでもありますよね.
命は大切だ。命を大切に。そんなこと、何千何万回言われるより、「あなたが大切だ」誰かがそう言ってくれたら、それだけで生きていける。
これは本音を言うことがどれだけインパクトがあるかということを物語っているのだと思います.
僕は思うのです.本音を言ったらいいのにって.本音を言ったほうが,相手に伝わりやすいのにって思うのです.ただ,そんな僕も本音でズバズバいう人間ではないので,何かを確信してこう書いているわけではありません.逆に自分も思い当たる節もあります.
僕の感覚では,建前や一般論を利用して,相手に自分の本音を押し付けるのって,卑怯だなって思えます.
しかし,これが大人の駆け引きなのかもしれません.わかりませんが...
例えば,”すごく痩せていて体つきが貧弱で異性にもてない”人が,”体を鍛えていてマッチョで異性にもてている”人に対して,「マッチョな人は実はホモが多いんだよ」と言ったとします.
やはりこれも本心では悔しいんだけど,相手が持ちうる負の可能性を言うことで,自分をなだめている,正当化しているように思えるのです.これをルサンチマンていうのかな?
この場合も,個人的には,本心として羨ましい,自分もそうなりたいとあるのなら,素直にそう言葉にするほうが,ずっと前向きだと”僕”は個人的に思うんです.これはあくまで例えばですが,僕は同じようなケースでは可能な限りそうしています.
結論を言うと,相手を認めるためには,まず自分を認めることだと僕は思いましたし,上記のデイヴィドソンの言葉からも以上のように連想しました.