精神分裂病者の死生観〜無意識の病理学―クラインとラカン / 新宮一成

★先日読んだフロイトの論集「自我論集」に収められている「快感原則の彼岸」の中の「死の欲動」という概念にとても興味を持ちました.そして,日本でラカン研究の第一人者と言われる精神科医新宮一成著の「ラカン精神分析」を読み,その流れで,シュールレアリズムの祖といわれるアンドレ・ブルトンの「ナジャ」を読みました.なぜかどんどんと引き込まれていくというか,手ごたえ(?)を感じてきたので,さらに,新宮一成の「無意識の病理学−クラインとラカン−」やラカンに関する著作を図書館で借りてきました.「無意識の病理学」の第5章や第6章はとても自分にとって興味のそそられる内容です.

『第5章 精神分裂病者の死生観』では,

デカルトがそれまで無意識のままに世界に押し付けられる傾向のあった自我を,一挙に自分の思考の中に取り戻した.それと共に,人間の肉体を,対象世界の仲間に加えて客体視する勇気を得たのである.近代の思想は,自らの死について直接的な知について語っている.

さらに,本章には,離人症を中核とする抑うつ神経症の女性(19歳)の手記が記されています.著者は,神経症者では,必ず死がイメージ化されて現れるといっても過言ではないと言及しています.そしてその患者たちはこの死を生に変えようともくろんでいるのだが成功せず,しかも自分のエネルギーの大半を,その努力のために費やしてしまっているのだと分析しています.かつて宗教において,そして現代は神経症者の幻想世界において,死の知から生の意味への変換の努力が大規模に営まれているという点で,ラカンの考えと著者の臨床的な感触は一致している,すなわち,死の知の原因は,言語にとらわれた主体の問題にかかわっているのだと示唆されています.