呪われた部分 有用性の限界 / ジョルジュ・バタイユ

呪われた部分 有用性の限界 (ちくま学芸文庫)
★本書はバタイユの主著「呪われた部分」の草稿原稿,アフォリズム,ノート,構想をまとめたものです.僕がバタイユに興味を持ったのは,バタイユフロイトの論文の「夢分析」「快感原則の彼岸」「自我とエス」から影響を受けて,「呪われた部分」の中で自論「普遍経済学」を展開したと言われていたからです.また,シュルレアリズムの祖アンドレ・ブルトンと対立していたことにも興味をそそられました.
第2部第4章「1944年3月の断章」では,

このように人間の意識のすべての内容は,自律という観念と結びついている.だから基本的には,自律は意識と同じことであり,この観念はもっとも単純なものである.しかし自律は多かれ少なかれ,効率性という尺度で存在するのであり,人間の意識が世界についてもつ経験を通じて,人間の意識のすべての発展と結びついている.だから蓄積された知識と独立して,この意識という観念の取り出すことはできない.この観念は内部だけからではなく,外部からも取り出すのである.というよりもこの自律という観念は,内部との関係だけではなく,外部との関係から,わたしたちのうちに生まれるのである.あるいは,むしろ,内部と外部との関係から,わたしたちのうちに生まれるというべきであろう.

フロイトは「自我とエス」でそれまでの「意識-前意識-無意識」の構造を一変させ,「超自我-自我-エス」と改めました.エスはまったく無道徳であり,自我は道徳であろうと努力し,超自我は過度に道徳的で,エスに残酷になりうると言及されています.
自我は上下からのエネルギーがぶつかり合う激動の場です.超自我は例えば西欧においては,中世のキリスト教道徳やギリシア文明からの理性主義道徳の文脈を反映しているといえます.
バタイユは,情熱的で欲求(エス)の強い人間であったことが知られています.それは「眼球譚」や「マダム・エドワルダ」に色濃く出ています.上記の引用で,内部といわれているのは「エス」,自律(意識)といわれているものは自我を中心とした「自己」,外部といわれているものは「超自我」のことではないかと僕は解釈しています.バタイユは,人間の自律が幻想にすぎないのではないかと疑問を呈しています.自律を求めるということは,失われた依存を悔やんでいるということだと述べています.貪欲を超越したところに,喪失と結びついた自律がある.自らを喪失する自由があると.
バタイユは,超自我,すなわち西洋の理性主義道徳の文脈への強迫観念が,自分の時代に根強く存在していることを感じて,エスの立場から超自我への西洋人の偏執を批判しようとしたのかもしれません.