ヴェネツィア -水の迷宮の夢- / ヨシフ・ブロデツキー

ヴェネツィア 水の迷宮の夢
ヨシフ・ブロデツキーは,1987年にノーベル文学賞を受賞したロシアの詩人・劇作家・評論家です.本書は,アメリカ亡命後の72年から17年の間,ほとんど毎年のようにヴェネツィアを作者の,ヴェネツィア滞在の印象記です.
作者はヴェネツィアの「水」と「美」を賛美しています.文字だけでこんなに美しくロマンチックに自分の感動を伝えられる人はなかなかいないでしょう.

目が最初にとらえる物事の表面というものは,しばしば内面よりも多くを語っていることがあるのだ.内面というのは,自明のこととして仮のものである.

作者は,人間の体の中で,目が一番独立しうる器官だと述べています.目は鏡に向う時以外,自分を見ることはなく,目はいつも現実を記憶し続けている.目は常に敵意を抱いている環境に,うまく適応して行くための道具である.目が安全を求めた結果.慰めとして「美」を好むようになるのだと.
また,人が涙を流すのは,網膜が美をとめておけなかったという失敗を承認することにほかならない.目自身は,自分のことを,自分がくっついている体の一部とは思っていなくて,自分が注目した対象物の一部だと思っている.涙は,目の将来の予兆であると.

そこで時間はそれらをもとに端の擦り切れたセピア色の写真のように,それらがないよりはましな形の未来を,コラージュ技法を駆使して,多分作り出してくれるだろう.このようにして,人は初めてヴェネツィア人となる.なぜなら,そこで,アドリア海とも大西洋ともバルト海とも同義の,「時間」別名「水」が,「僕らの反射像」別名「この町への想い」を,鉤針で編んだり織ったりして,二つと同じもののないすばらしい布地に仕上げていくのだ.

作者の視点からは,建物や彫刻に中に「性」は見えてこないと感じられました.文中でもフロイトの理論に対して懐疑的であるといったことを2,3度繰り返し述べています.

夢の世界を人間の現実で分析した所で,それはトートロジーになってしまうか,せいぜい闇に対する昼間の光ぐらいの割合でしか正当化は認められないだろう.


男と女とが漕いでいたのだが,ゴンドラは男性的でさえなかった.事実そのエロチシズムは,人の「性」から生まれたものではなく,いわばいろいろな「要素」から生まれたものだった.