多文明世界の構図 / 高谷好一 (1997年)

多文明世界の構図―超近代の基本的論理を考える (中公新書)


★目次
序章 多文明認識の視座
第1章 足で見つけた「世界単位」
第2章 「世界単位」としての日本
第3章 頭で考えた「世界単位」
第4章 ヨーロッパ
第5章 「世界単位」をどう生かすのか
終章 「世界単位」に生きる


★世界の見方として、普遍主義と多文明主義の対極の二派があると言われます。著者は、後者を支持する考えを示しており、日本が経済という単一の価値観へ収束していくことを危惧しています。普遍主義路線の3つの誤りを挙げています。すなわち、一つ目は、元来日本人は経済発展という普遍的な価値観を持ち合わせていない民族であったこと、二つ目は、普遍論理を推し進めると個別の論理を圧迫することになること、三つ目は、地球の破滅につながることが述べられています。


 普遍主義の大元は、かつての世界の覇者、イギリスであると考えられており、元来民族が持ち合わせた考え方に従い、産業革命により経済的に成功しました。帝国主義の根本にあったのが、ダーウィンの進化論、すなわち、競争原理の考え方だとも言われています。


 著者は、「世界単位」という世界の見方を提案しています。民族を強引に分断した国境ではなく、世界の秩序を考えためにも、地域住民が世界観を共有する地理的範囲(単位)を設定する必要があると考えられるためです。この世界単位は、三類型、すなわち、1.生態適応型の「世界単位」、2.ネットワーク型の「世界単位」、3.大文明型の「世界単位」です。すべて基本的なところでは生態に支配されているようです。


 ここ数十年で経済発展の目まぐるしいアジアですが、世界単位としてみると、日本、韓国、台湾あたりは、東アジア海域世界、フィリピン、ベトナムインドネシア、マレーシア、タイあたりは東南アジア海域世界、中国は中華世界、インドもインド世界といったように分けられています。


 生態適応型としては、ジャワ世界(インドネシア)や大陸東南アジア山地世界が、ネットワーク型としては、海や砂漠・草原地帯を移住型の生活を営む民族の世界が、大文明型としては、中華世界、インド世界が典型例として挙げられています。高密度の人口が広大な範囲にわたって広がっている大文明型をまとめるイデオロギーとして中華世界では儒教が、インド世界ではヒンドゥ教がそれになっています。さらに、大文明型は、岩石の自形のように中心にあり、一方でネットワーク型はその間を埋め合わせるように柔軟に他形をとっています。さらに、属地的、属人的という考え方もあり、農民は属地的であり、商人は属人的とされています。農民にはその地に長い間居続けるので土地柄が生じ、一方で商人はボーダレスで普遍的な価値(コスモポリタン)が生じると考えられています。 一方で、ヨーロッパの方も、非常に複雑で、簡単に言うと、生態適応型の世界単位として生まれてきたが、近代にはいって国民国家という自形になったと考えられています。


 ポスト・モダンの方向付けに強い影響力を持っているとされるアジア諸国ですが、例えば、東南アジアとヨーロッパを比べると、そもそも社会の成り立ちの根本が異なっているようです。例えば権威のあり方では、ヨーロッパでは一般市民の上には王家とキリスト教が天蓋上に懸っているのに対して、東南アジアではいくつかの超俗的な力の存在が認められており、汎神論的な世界となっています。


 本書を読んだ感想として、まず人間の生活がその土地の風土の影響を受けるというのは、非常に納得できる考え方だと感じました。世界地図の上で描かれた「世界単位」の分布図を見ると、まるで図鑑で何かの生物種の分布図を見ているような気がしました。


 産業革命以降、ヨーロッパ、アメリカを中心にまかり通ってきた、普遍主義(例えば貨幣)といったシンプルな物差しで世界をはかろうとすると、勝つか、負けるか、正しいか、正しくないかといった二極的な結論に陥るように思われます。また、ここ十数年で特に中国やインドの発展は目を見張るものがありますが、地域レベルでみてみると、伝統維持と変革との対立は生じているはずです。この葛藤の解決策として、「経済」という普遍的価値を入れることは簡単なように思えますが、本書で指摘されているように、ゆくゆくは地域の崩壊、極端に言えば地球全体の破滅につながりかねないのかもしれないと思いました。


 ただし、多文明主義が良いと思っても、本当の意味でこの主義をとるためには、その地域の生態調査、分析、理解に多大な労力を要する必要があると思われます。とても泥臭い作業が強いられるかもしれません。しかし、人間も生き物である以上、生きている環境から大きな影響を受け続けていると思います。環境から受ける刺激の軽減、すなわち便利さの追求が、本来受けているはずの個人や地域の空洞化につながっているという意見もあるようです。元来、自然から被るはずの「痛み」を引き受けることで、自分自身で考えられるようになる芯のようなものも少しずつ鍛えられてゆくのかもしれません。でも、現代の日本人にとっては大変難儀なことですね。