からはじめる生命論 / 加藤秀一(2007年)

〈個〉からはじめる生命論 (NHKブックス)


★目次
序章 「生命」を問い直す
 「かけがえのない生」が揺らぐ時
 反・生命の倫理学に向けて


第1章 胎児や脳死者は人と呼べるのか-生命倫理のリミット
 「生命」とは何か
 胎児とは“誰”のことか
 脳死者と胎児の差異


第2章 「生まれない方がよかった」という思想-ロングフル・ライフ訴訟をめぐって
 ロングフル・ライフ訴訟とは何か
 ロングフル・ライフ訴訟の実例
 「生きるに値しない人」は存在するか
 「生命」の至上価値を疑う


第3章 私という存在をめぐる不安(存在の「意味」をめぐる不安
 存在の「根拠」をめぐる不安
 存在の「事実」をめぐる不安
 〈非在者の驕り〉を批判する


第4章 「生命」から「新しい人」の方へ
 人間はいつから「生命」になったのか
 「誕生」の哲学・序説


★あらゆる生命を無条件で肯定することは、「徳」といえるでしょうか。そこから生まれる美しいスローガンは、何を意味しているのでしょうか。


近代ないし現代の社会とは、人間それ自体が「価値」として相対評価される空間であるとし、生物学的な「生命」という単一の「価値」概念で測られてしまうことを危惧したり、そういった社会のあり方を批判する言説がいくつかあります。生命賛歌とは、「倫理の問い」を「生政治」へ吸収させるように促すだけのものなのかもしれません。


ミシェル・フーコーは、人間の<種としての生命論>そのものを主要な介入の対象とするような権力技術を、「生権力」と呼び、それを主要な権力技術とする政治を「生政治(学)」と呼びました。かつて権力が、それに刃向かうものを殺すことを最終的な存在理由としたのに対して、次第に医療や公衆衛生といった一連の「知」および諸実践と一体化した「権力」に、人々の生活が介入され、計画されるようになってきたと指摘されます。


この生政治の概要として、19世紀から20世紀初頭にかけて欧米を席巻した優生学運動、特に断種法が挙げられています。そして、その後、ナチス・ドイツに、第二次世界大戦後の日本における優生保護法や北欧諸国での優生政策に引き継がれていきます。現代においては、全体主義的な強制ではなくなったとはいえ、民主主義の元で人々の自発的な選択を通した人口の「質」の調節が行われるようになったとの議論があり、これは「新優生学」とも呼ばれています。


ジョルジュ・アガンベンもまた、古代以来の「権力を剥き出しの生に結びつけている秘かな連関」を明るみに出しているとされています。例えば、ナチスの行った安楽死政策や今日の脳死臓器移植は、あくまで生命をめぐる「政治」の要素であって、決して「倫理」の問いではないことを指摘していたことが説明されています。また、アガンベンは、「政治」と「倫理」を峻別しており、そこからは、無自覚な善意から倫理を語ることは、人間をより深く生政治学に巻き込む可能性があることを示唆しています。


ハンナ・アーレントは、「生命」批判として、古代ギリシアでは、蔑まれた「生命」そのものが「最高善」としての地位を獲得していることを指摘しています。社会とは、古代と同じ意味での公的領域ではなく、際限なく拡張された私的領域であるのだと。アーレントは、ホッブズを引用し、それまでは人間の「善」や「徳」と呼ばれてきたものは、より平板な、単一尺度で測られる「価値」に変貌させられたことを指摘しています。「統治」とは、「暴力による死」に対する個人の安全ではなく、社会全体の生命過程を妨げなく展開させるための安全であったいう洞察がなされています。


著者は、「生命」から「<誰か>がいきているという事実」へと思考の場を移行あるいは降下させることを提唱しています。<誰か>に定位する思考は倫理的配慮の対象となる人の範囲を最大限に拡張しうるということが何よりも重要であるのだと。この<誰か>をめぐる議論は、「生命」に固執しない以上、種としてのヒトだけに限定されるものではなく、場合によっては、倫理的主体として、「生体ないしは機械を含む、ある認知システム」を主語にすることも、理論的には考慮できる範囲であるとしています。


アーレントが言及したように、我々人間が誰かから生まれたこと、別の誰かを生むということは、「生命」の平面で退屈に反復される「生殖=再生産」などではなく、まったく新しいことの始まりとしての「誕生」であると考えられます。極端に言えば、一個の人とは、それだけですでに一個の「新種」であると言えます。われわれは、「人間であるという点ですべて同一でありながら、だれ一人として、過去に生きた他人、現に生きている他人、将来生きるであろう他人と、けっして同一ではない」と考えられます。


種レベルで「生命の誕生」をとらえると、保守的な再生産の論理により支配されていることになりますが、個体レベルに落としてみれば、個体レベルの無限の差異が生じていることがわかります。「誕生」とは、「奇跡」であると言えます。


このことは、アーレントの「赦し」の議論にもつながる話で、生命の自然に従うならば、こころには復讐の感情が湧き上がり、凄惨な復讐の連鎖が生じます。しかし、相手を赦し、復讐の応酬を断ち切るのは、生命の論理を超え出たものであり、それも一つの「奇跡」としてとらえることができます。


人というものは、本来的に規範的予測をはみだす可能性をつねに伏在させており、いうなれば、「雑音源」です。子どもや異邦人はまさに社会にとっての「雑音源」そのものであるととらえられます。


アーレントのいう「誰か」は、それ自体としては、われわれの<誰か>と同じものではなく、必ずしも「言葉」や「行為」を操れる存在者であるとも限りません。<誰か>に呼びかけるという態度を学ぶのは、「活動」の力能ゆえのことであり、現前の動かない<誰か>に見出すことは微塵も非合理ではないと著者は考えています。