はじめての宗教論 右巻―見えない世界の逆襲/佐藤優(2009年)

はじめての宗教論 右巻 見えない世界の逆襲 (生活人新書)


★目次
序 章 「見える世界」と「見えない世界」−なぜ、宗教について考えるのか
第1章 宗教と政治――神話はいかに作られるのか?
第2章 聖書の正しい読み方――何のために神学を学ぶのか
第3章 プネウマとプシュケー――キリスト教は霊魂をどう捉えたか
第4章 キリスト教と国家――啓示とは何か?
第5章 人間と現在――現代人に要請される倫理とは?
第6章 宗教と類型――日本人にとって神学とは何か?


★現代は、「見える世界」の比重が異常なほど高まり、逆に「見えないもの」の理解がしにくくなったと指摘されています。近代以降、超越性すなわち宗教は隠れた形で現れているようです。宗教を否定して科学を信仰すること、安易に原理主義に走ることも、「信じる」という意味では宗教の一形態であるとされます。


本書は、究極的な救済をどう得るかという視座から宗教について考察がなされています。ただし、宗教一般について論じることは不毛であるとし、自身の信仰であるキリスト教プロテスタンティズムの視点から、「見える世界」と、「見えない世界」について解説および分析が行われています。


現代では、古来より宗教の中で扱われてきた超越性としての「神」は、官僚制の中へ世俗化した形で押し込められ、一方、「死」は克服したいという自己意識により隠蔽されてしまったとされます。キリスト教的にいうと、「神」と「人間」の位置の逆転でしょうか。


このような時代では、類比(アナロジー)という考え方が重要になると強調されています。類比というのは、人間と周囲の関係性の問題のことであり、世俗化した時代に人間に要請される倫理の問題のことです。


ここでは、道徳とは善悪についての一般的な基準のこと、倫理とは特定の人が個別具体的な状況でとる決断のことであると峻別した上で、理念や理論は現実の世界で具体的な形をとって意味をなすものであると述べられています。この考えは、イエス受肉論により鑑みられています。ここでの受肉論とは、「見える世界」と「見えない世界」をつなぐ、いわば回路のメタファーのことです。


倫理とは個別具体的な状況での判断だとすると、場合によってはある特定の信仰(道徳)を持った人であっても、ときには苦しい決断を迫られることもある、と佐藤氏は述べています。


個別的な出来事には必ず差異があり、自分とは異なるものをいかに認めるかという、寛容・非寛容の問題とつながってくるといわれています。すなわち、類型的な見方は、多元主義で、寛容性が高く、逆に具体的な実体から離れたところに抽象的な絶対の真理を立てることは、寛容性が低くなるということです。


日本では誤解されることがあるようですが、キリスト教は具体的な実体から離れたところに抽象的な絶対の真理を立てることは禁じられているとのことです。偶像崇拝を禁じているのもこのためでしょう。


近代という時代は、外部性(神)が捨象され、人間の内面が肥大化されていった時代であったともいわれます。人間の自己絶対化はここから生じたのであると。


最後の方で、われわれは個別具体的な状況の中で、そのつど倫理的な判断を迫られていると再度述べられています。佐藤氏は、ナザレのイエスの類比より、もし二つの可能性があるならば、より苦しいものを選ぶべきだと述べています。


そして、締めくくりに、「見えない世界」、すなわち超越性の問題については、緊急の課題として捉えないといけないといっています。別の言い方でいうと、現代に適した新たな認識のフレームが必要ということです。人間が生きていく上での思考のフレーム、あるいは命のフレームがいるのだと。


キリスト教の聖書を読んだとしても、そこに観念的な真理としてとらえるのは間違いで、「わたしはなにをなすべきか」という倫理の問題とは、各人にとって、具体的かつ現実的な事例として立ちはだかってくる問題であるということでしょうか。


ましてや現代は、超越的なものが、政治の中に、一方で、自分の中にもぐりこんでいるような時代です。俗物化した宗教が、社会というマクロな方向から、一方で私の欲望というミクロな方向から迫りよってくるような感じです。


倫理学とは「なにを選択するか(したか)」ではなく、ソクラテスのいうように「よき生とは何か」を第一に問う学問であるというのは重要な観点だと思います。しかし、佐藤氏の指摘するような、マクロ、ミクロの両面から押しつぶされつつあるような過酷な状況で個人に課せられる倫理的な判断とは、いかなるものでしょうか。


本書で感じたことは、宗教を考察し直すことは、倫理学を行う上で非常に重要なことではないだろうかということです。特にキリスト教神学の受肉説に示唆されてきた、いわゆる超越性あるいは「見えない世界」の問題についてです。宗教や神学がこれまで扱ってきた「神」や「死」のような超越性の問題は、倫理の問題と直結しているのがわかります。


また、具体的な局面において倫理的な判断を下さなければならない場合においても、超越性についての論理的思考を身につけることは、よりよく生きるのに必要な処世術のようなものになるのではないだろうかと思いました。