保全生物学の起源

第7章では,「保全生物学は科学である」と断言されている.僕はこれには異論はない.しかし,科学と言っても色々ある.デカルト的な機械論・還元論的な思考,一方で,全体論的な物事の見方,あるいは森岡先生が述べられているような生命主義的な考え方など.科学って一言で言うけど,どんな科学のことを言いたいのだろう.
次に,「保全生物学とは,十分な知識が欠けていたとしても行動をとらなければならないという危機の分野である.」と述べられている.これは些か軽率ではないだろうか.また,保全生物学が緊急外科であるなら,生態学は保健であると述べられている.このニュアンスがわからない.例えば,お腹が痛かったとしても,すぐにお腹を開いて中を見るお医者さんがいるのだろうか.何でも行動すればいいというものではない.
さらに,「保全生物学とは,科学的な研究分野として保全生物学は政治,倫理および経済とは離れて,独立しているべきである.」と述べられている.この「独立」という意味が,僕にはわからない.このように,学問の分野を再分化し,自分たちだけのテリトリーを持とうとすることは,果たしてよいのだろうか.また,独立して,かつ実践的であるといった場合,地域住民のボランティアの「自然保護活動」と区別がつかなくなるのではないだろうか.

僕の中にある保全生物学とは,生態学+倫理観である.頭で生物多様性は大切だと理解できる人は多いだろう.しかし,「こころ」で感じ取ることにも同じだけ比重を置くことが大切だ.ここで言う,「こころ」とは,「よろこび」,「くるしみ」といった個人の内部で生じているものだ.だから比べることは難しいし,比べること自体ナンセンスかもしれない.保全生物学は,生き物,すなわち,「いのち」を扱っていることを忘れてはならない.
生態学は,知識(技術)である,一方で,倫理の部分は知識ではなく,「こころ」であると思う.「私」が生きている間に,色んな人と接したり,時には人や他の動物の生命の誕生を見たり,あるいはその死に直面したりして,その度に感じたり考えたりして,或いは悩んだり,自分の無力さに気付いたりして,「私」はこんな風に思うんだと言えるようになるかどうかだと思う.また,色んな生物の不思議さに好奇心を掻き立てられたり,植物や綺麗な花を見て,癒されたり,作物を種から育てて,収穫する喜びを感じたり.ある意味では,汗水流して,感じ取るものであると思う.
だから,保全生物学の起源は何かと簡単に言うなら,「私」という個人が,生態学の知識を学び,かつ自分も含めて生物の「いのち」について「痛み」や「よろこび」を持ったときが,始まり,すなわち起源であると思う.
結局,僕はこの「保全生物学」という教科書からは,生態学的な知識を得ることはできそうだが,この著者の倫理観は学べそうにない.なぜなら,述べられていないからだ.おそらく,そういった個人的な嗜好性を書くことは,読者を限定してしまうので,一般的な教科書には適していないのかもしれないと考えられるのだろう.
しかし,今の情報化時代であれば,一般的な知識であれば,ネットで山のように得ることができる.だが逆に,一瞬見ただけでは,わからないのは,その人の人間性であり,倫理観である.だから,個人の嗜好性,物事の捉え方を前面に出さない教科書は,受験用のテキストと変わらないと思う.

保全生物学―生物多様性のための科学と実践

保全生物学―生物多様性のための科学と実践