「子ども」であるということ

今日もDコマだった.今日で夏期講習が終了した子もいる.中3の子なんだけど,夏期講習では,中1の範囲しか進めなかったのだ.この夏に勉強したことはちゃんと覚えておいてくれるかな.ちょっと不安だな.
少し話は変わるが,一日のうちで色んな自分がいるなって感じる.昼から哲学研究会に参加して,研究して,その後,バイトとこなしていくと,結構,その場その場で切り替えている気がする.一時期,僕は,不器用な人間だと思い込んでいて,研究なら研究しかできないと思っていた.しかし,研究以外にも,バイトや,他分野の研究者らと交流をしてみると,意外とこなせることに気づいたのだ.しかし,それと同時に感じるのが,「自分は浅いな」ということだ.研究にしても,まだまだだし,アルバイトにしてもまだまだベテランの先生もいるし,哲学に関しても,ほんと未熟だと感じるし,音楽に関しても浅く狭くって感じだ.
多芸は無芸とまではいかないとしても,その場その場で,「自分の筋って何?」って思うこともある.研究室以外の人には,寄生バチを研究している人で通しているし,研究室の中では,ちょっと哲学にかぶれているイメージももたれているし,塾講師でばりばりやっているイメージもあるかもしれない.しかし,自分のすべて(?)の顔を知っている自分は,本当は少しずつよく見せているだけという虚栄心も感じている.しかし,結局それが「自分」ということで納得するしかないのだろう.まだ,自分が思ったことにチャレンジして,そこで色々と考えられるだけでも幸せなのかも知れない.
モラトリアムと呼ばれる時期だと言われれば,そうだろうけど,年配の人が言う「私もそんな時があったよ」という言葉だけは受け付けなかったりする.経験だけがすべてだとは思わない.年齢が上がっても,「子ども」な人は「子ども」だから.といっても「子ども」というのは皮肉ではない.「当たり前が当たり前になっていない」という意味で子どもなのだ.そして,研究にしても,哲学にしても,”わからないこともわかったと見せかけている”「大人」には,できないと思う.
ちなみに,これは,自分自身に対する戒めの文章である.