<問い>の問答 / 南 直哉・玄侑宗久 (2008年)

同時代禅僧対談 “問い”の問答


★目次
第1章 “異界”
第2章 言語
第3章 出家
第4章 慈悲
第5章 “近代”
第6章 師
第7章 正法


★南直哉さん、玄侑宗久さん両氏の著作は、今まで何冊か読んできました。特に南さんの著作を読んで以来、難しいと感じながらも、その思想の核心に少しでも触れることができればと思い、極端な言い方になりますが、毎回心を無にするようにその著作に触れてきました。本書は、対話であるため、ある程度平易な言葉で多くの事柄について述べられているように思えます。
どの節を読んでも非常に含蓄のある会話になっており、一気に読み飛ばしてしまえるような部分はありません。


仏像や信仰とは、ある種の強烈なコミュニケーション願望であり、その人にとっての切実なコミュニケーションを、あまり勝手に解釈したり意味づけたりしては、駄目だと南さんは述べています。つまり、仏教や信仰というものがコミュニケーションであるなら、まず自分にとっての仏教とは何か、信仰とは何かを設定してほしいと。


禅の言説が言い切って固定することを、つねに壊そう、壊そうとすること、あるいは、恐山でイタコさんが「死者」とコンタクトを取っていても、南さんは、彼らの中には常に強い不安、存在不安があり、自分はそこにシンパシーを感じると述べています。玄侑さんは、それを「物語」だと指摘し、仏教的な悟りというのは、おそらくその物語の解体であると述べています。


日本という国の独特さがものすごく仏教とマッチしたと思うのは、「なる」という言葉だと玄侑さんは指摘しています。「生る」と書いて「なる」と読む。「仏になる」という言葉は中国では「成仏」となり、意味としては設計通り完成するとなるが、日本語では「仏になる」となって、より「縁起」による変化を感じさせると。


両氏が繰り広げる会話は、単に仏教の範疇に留まるだけのものではないように思えます。「本質」を追求する人たちの会話は、必然的にこうなるのかもしれません。