さとかん「環境倫理勉強会」

天神橋にある大阪自然環境保全協会の事務所にて環境倫理勉強会を行いました。今回は、1988年に出版された森岡正博先生の「生命学への招待―バイオエシックスを超えて」をもとに、特に環境倫理に関わってくるような根底にある哲学・思想について紹介がなされ、参加者で議論を行いました。
一応は自分も何冊か書籍を読んでいたので、理解は割合スムースにできました。議事録はまた会のブログにアップされるとして、かなり端折って言うと、人間と自然の共生のためには、「私たち」人間の行為は、生命圏のためにする行為と、他者のためにする行為の二つにわけて検討する必要があると指摘されています。
「生命圏の行為原理」に対して逆の側からのアプローチである「他者の行為原理」というものを盛り込み、それぞれの原理がともに満たされるような行為をすることが共生には重要だと考えたところに、オリジナリティを感じます。これは「他者の行為原理」に関わると思うのですが、森岡先生の思想を端的に表しているフレーズがあります。それは、”自分をけっして棚上げにしない”ことです。
本書の最も重要なセンテンスのひとつを抜き出します。

「私の死」と、「私以外の人間の死」では、まったく別概念といってよいほどその意味が異なってくる。哲学的にみた場合、「私」以外のすべてのヒト個体は「他人」である。その他人のうち、「私」とある特別な関係にあるヒト個体として、「あなた」がいる。「あなた」は、他人の中でも、特に親密な存在者である。この「あなた」という概念に一種の普遍化を施したときに、それを「他者」と呼ぶことにする。すなわち、すべての他人のうち、「私」にとっての「あなた」に、理論上なり得る存在者のことを「他者」と呼ぶのである。従って、「私」と「他者」は、根本的な対概念としてのみ成立する。

この「他者」には、脳死の問題にかかわるのですが、例えば、死んだばかり(場合によっては脳死と判断されるかもしれない)の肉親の死体もその範疇に入る場合があります。息子である「私」と目の前にある親。目の前にある親の状態が脳死であるか、そうでないかのような線引きの問題以前に、もっと重要な問題があるのではないだろうかというのです。この「私」にとっては親であることにはかわらないということです。従来の合理的な倫理学の体系では、このような「私」を中心とした密接な関係性をすくい取りきれないと指摘されます。さらには、この「他者」には、人間ばかりでなく、哺乳類、動物、植物も、程度こそは変るものの、その範疇に入り得ます。
ここで、個人的にふと思ったことがあります。この「他者」の範囲は人によって違っているのだろうということです。例えば、マザー・テレサさんのような聖人とも呼ばれるような人は、きっと「他者」の範囲は”生きとし生けるものすべて”と言っていいくらいに広かったのでしょう。確かに、ベルクソンの思想は救世主が世に現れ、人類を救済するといった一神教的な志向性があるともとれる一方で、その救世主には誰でもなり得るというようなニュアンスも感じ取れます。このような話は大変にスケールの大きな行為です。しかし、僕らのような庶民レベルの人間であっても身近なところからその「他者」を拡張してゆくことが可能であるだろうし、「生命圏」の理解も、生物、生態学的な知識によって補強してゆくことが可能だと思います。