〈個〉からはじめる生命論 / 加藤秀一 (2007年)

〈個〉からはじめる生命論 (NHKブックス)


★目次
序章 「生命」を問い直す
第1章 胎児や脳死者は人と呼べるのか-生命倫理のリミット
第2章 「生まれない方がよかった」という思想-ロングフル・ライフ訴訟をめぐって
第3章 私という存在をめぐる不安(存在の「意味」をめぐる不安
第4章 「生命」から「新しい人」の方へ


★現代は、生命が至上価値となった世界に生きているとも言われます。しかしそれには二重の意味があり、医療や環境問題に即して生命の大切さが繰り返し訴えられる傍らで、生命の介入する技術が甚大な市場価値を生んでいるのも事実です。


このような様態をハンナ・アーレントは、倫理の問いと深く交錯すること、せざるをえないことをいち早く示唆し、「生命」批判として、論理を展開させました。アーレントは、〈活動的生活〉を3つの要素、すなわち「労働」「仕事」「活動」に分解しました。近代では、古代において私的領域に押し込められていた「労働」が人間の主要な活動力とみなされるようになったと指摘されています。また単に「労働」が主力になったことだけを批判しているのではありません。人間が単一の「価値」概念で測られるものになってしまうことを危惧しているのです。


近代は、「労働」台頭と生命そのものが最高善としての地位の獲得が重なっているという見方もできます。これは「人間それ自体」が「価値」として相対評価される空間が成立したということであり、さらには、生きられる価値のある生命とない生命の区別がなされていくことも考えられます。このような平面的なモノサシを用いて「倫理」を標榜することは、かつて創成期の生命倫理が「神さま委員会」と揶揄されたように、いわゆる「生政治」の部品に成り下がることになりかねません。


では、私たちはどのように「倫理の問い」を奪還すればよいのでしょうか。この問いに、著者は、現在のところ明快な答えをだすことはできないと言及しています。ただ、倫理を顧みずに生政治を求めることではなく、対抗的な生政治のために武器としての倫理を鍛えることでしかありえないと述べます。そのためには、「生命」は倫理の平面として捉えるのではなく、「生命」から「〈誰か〉が生きているという事実」へと思考の場を以降あるいは降下させる必要があると述べています。