ロックを生んだアメリカ南部-ルーツ・ミュージックの文化的背景 / ジェームス・M・バーダマン,村田薫

NHKブックス(1071) ロックを生んだアメリカ南部 ルーツミュージックの文化的背景


★目次
プロローグ すべてはふたりのキングから生まれた
第1章 黒人音楽はエルヴィスの中に焦点を結んだ
第2章 ブルースマンの悲痛な叫び―ミシシッピー・デルタの混淆から
第3章 都市をゆりかごに生まれたジャズ―ニューオリンズの坩堝から
第4章 ゴスペル 魂の高揚―信仰と教会、そしてアフリカの匂い
第5章 カントリーの故郷はどこか―オールドアメリカへの郷愁
エピローグ 都市という荒野で歌うディラン


★自分は黒人ミュージックも好きで、ブルーズ、ジャズ、ゴスペル、カントリー、ソウル、R&Bと色々聴いています。特にブルーズに関しては、音階は単純なはずなのに、どうしてあんな味がでるのかと不思議になります。ロバート・ジョンソン、レッド・ベリー、B・B・キングビリー・ホリデイ・・・挙げればきりがありません。


彼らの演奏を聴くと、「歌う」というより「叫んでいる」ように聴こえます。ただ音楽をやりたかったというのではなく、たまたま目の前に楽器があったから、音を奏でるという行為を選び、それに共感して寄ってきた人々との間に独特のうねり(グルーヴ)が生まれたように思えます。根底には人間の嘆き哀しみが流れているように聴こえます。魂というか、記憶というか、宿命というか、そういったものと一体化している姿がそこにあります。


本書では、ブルーズの中核に宗教があることが指摘されています。ゴスペルなどは教会音楽だから宗教的であるのは当然としても、ブルーズも教会音楽に吸収され、反発することの繰り返しの中から多くの作品を生み出したというのです。


ブライアン・ウィリー・ジョンソン、サン・ハウスは、信仰を主題に曲を歌ったブルーズマンです。B・B・キングの語りなんて、典型的な黒人教会の牧師や伝道師の説教スタイルに驚くほどよく似ていると述べられています。なぜなら、彼自身、教会などで物語るスタイルを覚えたためであり、神学の解釈ではなく、物語を使うところも南部のプロテスタント系教会の流儀の影響があると説明されています。


一方、トミー・ジョンソンやロバート・ジョンソンが、ミシシッピー・デルタの「十字路」で悪魔に魂を撃ってブルーズ音楽のテクニックと真髄と手に入れたという逸話は有名です。しかし、これは、ブルーズに命を賭けて打ち込むという、単なる美談ではないというのです。なぜなら、キリスト教では魂の永世が信じられており、肉体が死んでも、魂は永遠の生命を持つと信じられているからです。従って、「悪魔に魂を売」り渡してしまえば、死とともに、その人は完全に無になるのです。


マーティン・ルーサー・キング牧師の有名なスピーチ「わたしには夢がある」の最後の”We Shall Overcome”は、ゴスペル作曲家チャールズ・A・ティンドレーの曲のフレーズ”I'll Overcome”をモチーフにしたと言われています。


若かれし頃のボブ・ディランは、ロバート・ジョンソンのレコードを聴いて、”洗礼”を受けたと『自伝』で告白しています。無意識のうちに縛られていたものから解放され、「自由」になったのでしょう。


本書の締めの文章が詩的で美しいですね。

南部のミュージックは、ブルースにしてもカントリーにしても、悲惨な生活から生まれ、哀しみを歌うものが少なくない。そういう気の滅入るような内容の歌が、なぜか多くの人の心を捉える。それは、歌を通して体験を共有するということが人間に計りしれない力を与えるからだ。人間はただひとりで自分の存在の無意味さを耐えることができるほど強くない。しかし、たとえ家郷に帰れなくても(homelessness)、土から切り離されても(uprootedness)、そしてまた、愛する者を失っても(blues)、その喪失の切実さを分かち合う人々がいる限り、私たちは生きることができる。音楽が愛をいう言葉と結びつくとすれば、そういう意味でだろう。哀しい音楽がなぜ楽しいか。美しいからだ。そして心のありようを偽らずに伝えようと模倣するからだ。ルーツ・ミュージックはそうした単純さを失わない音楽だ。