小林秀雄 (別冊太陽 日本のこころ 162)/(2009年)

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小林秀雄さんの講演集CD第一巻から第七巻を聴いているせいか、いつのまにか非常に馴染みやすい人に感じてきました。最近、こんな素晴らしい図版が出ました。写真の美しさもさることながら、文章を寄せている方々も超一流の人物ばかりです。これはお買い得ですね。


一言一言が意味が深く、そこに小林秀雄らしさがにじみ出ています。詩的にも美しい。調子がとても整っています。文章とはこのように書くものなんだと知りました。しかし、凡人にはなかなか真似できません。


そもそも「考える」って何でしょうか。そんなこと考えたことありますか。

かんがふは、かむかふの音便で、もともと、むかえるという言葉である。「かれとこれとを、比校(アヒムカ)えて思ひめぐらす意」と解する。それなら、私が物を考える基本的な形では、「私」と「物」とが「あひむかふ」という意になろう。「考えるという事」より



小林さんが、ものを考えるとき、ベルクソンは常に横に立っていたと言われるくらいに、その影響は強いです。未完のベルクソン論「感想」もまた読み応えのある書物です。


そもそも「みる」ってなんでしょうか。

visionという言葉は、生理学的には視力という意味である、常識的には夢、幻という意味であるが、ベルクソンが言いたいのはそうではない。visionという言葉は、神学的には、選ばれた人々には天にいます神が見える、つまり見神というvisionを持つというふうに使われていたが、ベルクソンの言うvisionは、そういう古風な意味合いに通じている。これを日本語にすれば、心眼とか観とかいう言葉が近いだろう。先に仏教の観法には審美的性質がそなわっていたと言ったのは、そういう考えが自分にあったからである。「私の人生観」より