チュニジア世界遺産「古代カルタゴとローマ展」 / 京都文化博物館




京都文化博物館まで観にいってきました。地中海という響きだけで、ほぼ無条件に興味がわきました。彫刻、モザイクなど、日本初公開作品9割以上を含む160点余りの貴重な美術品が鑑賞できる、2階分のフロアを使ったとても大きなスケールの展示会でした。HP


地中海といえば、ナポリの海を思い出します。日本の海よりもずっと鮮やかで深い青色の海と空。そして頭上より照りつける太陽。日本人にとって、海はいろんな想いを掻き立てられるのと同様、ヨーロッパ人にとっても、地中海およびその周辺の地域の文化は、特別なものだったようです。

地中海的自然、それが供する資源、それが決定づけ、あるいは課した関係が、この呆気に取られんばかりの心理的、技術的変容―数世紀の内にヨーロッパ人を他の人々と、また近代をそれ以前の時代からかくも深く異ならせた―変容の起源にある(ヴァレリー『La crisi del pensiero』1994年)

そして、思春期の頃大好きだったアルベール・カミュの著作も思い出します。地中海の海と太陽は、観念的には、無限や絶対を想起させます。一方で、人間の生という有限性との対照性を感じるとき、恐ろしく孤独に苛まれるのは人間の性でしょうか。

省察の誕生ほどにも複雑なことがあるだろうか。良い省察はいつも、少なくとも二重になっている。ギリシアはわれわれにそのことを教えてくれる。われわれはつねにギリシアに帰らなければならない。ギリシア、それは影と光。われわれ他の「南」の人間は、太陽には黒い顔があることを、知っているのではないだろうか?(カミュ『エッセー』1967年)

太陽の光と影。生と死。愛と絶望。世界への肯定とは、人間の生の限界の肯定を意識することなのかもしれません。

死は人生に形を与えるように、愛にも―運命へとそれを変容させることによって―形を与える[・・・]。とすれば、死のない世界に何の意味があるだろうか。それは消えたり蘇ったりする単なる形の連鎖、苦悩だらけの逃走、完結を遂げられない世界にすぎまい。だが幸福にも安定が、彼女(死)がある。(カミュ『手帖』1992年)

個人的には、海は、ゆったりとしていて、自由な印象があります。自分の小ささや、有限性を実感することは、何か現代の万能性による陶酔に対するよい解毒剤のように思えます。