「『動物からの倫理学入門』の一つの読み方――倫理・正当化・正義」 / 野崎泰伸(2009年)



伊勢田哲治著『動物からの倫理学入門』はとてもよい倫理学の入門書で、これから環境倫理生命倫理を学ぼうとしている人にとっては、基本的な事柄をこの一冊で押さえることができ、頭が整理される内容だと思います。しかし、「結局、動物とどのように接すればよいのか」という問いには直接的に答える内容ではなく、あくまで、規範倫理学を中心に、理論の整理をスマートに行ったものであり、現場との距離感は感じずにはいられません。また、規範倫理学が「われわれはどう生きるべきか」を扱う領域として紹介されているのですが、論点は「われわれは何をすべきか」になってしまっているように思われます。


この本に対する評価はどうだろうといろいろ検索していると、「京都生命倫理研究会」というグループで、昨年3月に合評会が行われているのを知り、いくつかのコメントを読みました。その中で、立命大の野崎泰伸氏という方の論評がとても本質的なことに触れている気がしたので、ここで簡単に要約的に記録しておきたいと思います。


著者は、まず私たちは、倫理学が追求すべきものの一つの要素として、「行為に関する判断やガイド(について考えさせるようなもの)」というものを、あまりにも自明なものとして受け入れすぎているのではなかろうかと問題提起します。そして、その結果として、倫理学の仕事の一つとして、「行為を正当化する判断基準」を議論することであるとされ、多くの論争が起こっているように感じていると述べます。


古来より哲学者たちが議論を行ってきた「私はどう生きればよいのか」という問いには、実は二種類の問いが混濁しているとし、一つは、「私はどういう行いをなして生きれば道徳的によいのか」という問い、もう一つに、「私はどうすれば「よく生きる」ことができるのか」という問いであるとします。現代は前者の問いが肥大化してきているように思われるとしています。


「なぜ倫理学という学問は「行為の道徳的価値判断の正当性」に焦点化して議論されるようになったか」という問いに対して、急速に発展してきた医療技術による医療資源の分配の問題が一つの要因として挙げられています。すなわち、「いのち」にかかわる、特に緊急に判断を下さなければならないなかで、どういう判断が「正しい」とされるか、またその根拠は何か、ということが主題化されてきているということです。そしてそのなかに、「財の希少性」の問題も、「動物のいのち」の問題も含まれる、という構図なのではなかろうかと考えられています。


ある行為を正しいかどうか判断するということを行うためには、それが拠って立つところの基準が必要です。徳倫理学、義務論と帰結主義は、それぞれ行為の正当性を行為の性格・動機、行為の意図、そして行為の帰結によって判断しようとするものです。つまり、行為の正当性の着眼点に関してこれら三つの間では相違があるのであり、「ある着眼点をもって行為の正当性をはかる」という営為はどの立場も同じであると解釈できます。


しかし、著者は、「行為の正当性」を求める姿勢に完全には乗れないと主張しています。それは、一つには、正当化すなわち根拠を問う営為に不可避の無限背進の問題があるからとしています。正当化の理由に納得できない人がいた場合、正当化の作業を続けていけば、それは原理上無限に続けられねばならないからです。


もう一つには、正当化という営為にはどうしても自己欺瞞的な側面がついてまわるからであると考えています。著者は、たとえば、理論の内的整合性は大切だと思うが、そのために意識や感覚がない――「人格」ではない――人間(や動物)のいのちについて、生きていても(苦痛を感じないように)殺されてもかまわないと言うのは、許し難いと考えています。人間/動物、人格/非人格という線引きの種類ではなく、線引きの正当化という思想そのものに疑問を呈しています。


確かに著者の主張は、殺してはいけないにもかかわらず、現実には殺してしまっているという、理論上一見すると矛盾するような困難を引き起こすものかもしれません。しかし、現実に殺すということと、殺すという行為を正当化するということは違うことであると強調しています。確かに、私たちは生命に関して線引きを現実的にはするし、しなくては生きてはいけません。ただそれは、私たち自身の都合でしかありません。それに対して、著者は、線引きは「現実的にはなされるものだが、その倫理的な根拠づけはできない」ものとして粛々と行われるべきものではないだろうかと述べます。そしてのその上で、「私たちの都合」によって殺される生命がなるべく少なくなるように社会の制度は整えられていくべきであり、言い換えれば、社会がどんなに変わったとしても、悪をなす生があるかもしれないが、それでも、行わざるを得ない悪を最小限にとどめられるような社会の仕掛けは作られるべきであると主張しています。


著者の考える、正しい社会とは、「どのような生も無条件に肯定される」ような社会です。不法滞在の移民の生も、重度の知的障害者の生も、ゴキブリの生も、アメーバの生も、無条件に肯定されるべきであるとします。ただ、なぜそれが正義だといえるかについては根拠はないとして、ある種の宗教性を帯びるものかもしれないとしています。


一方、現実的に考えてみれば、「生の無条件の肯定」を貫くことは、きわめて難しいことではあります。しかし、「不可能なるものの経験」として、「生の無条件の肯定」をこの社会における正義として要求したいという意図があるのです。


デリダを引用し、実現可能性という意味において正義の完遂は無理であることを踏まえた上で、正義を措定しておかなければならないとしています。実現不可能な正義に向かって実現可能なことを行い、正義に漸進的に近づいていくものなのだとしています。


私たちが正義という極にひかれてなすべきことは法の脱構築だとデリダは述べています。しかし、無条件性としての正義は、法という条件つきのものには到底書き込めないがゆえに、法と正義とは峻別されなければならないとされます。著者は、これに添う形で「すべてのひとが十全に生を享受することが、無条件に肯定される」ためにこそ、法が必要なのであり、また法の改良が必要なのであると考えます。


現実的には、瀕死の患者たちを限られた医療資源と時間で全員救うのは至難の業です。しかし、そのとき、部分的な救出、つまり現実にできることというのは妥協の産物でしかなく、どのような決定であっても現実になされる決定である限りにおいて決して正当化されないと考えられます。


ピーター・シンガーは意識があるかないか、感覚があるかないかによってシンガーの言う倫理的配慮の対象であるかどうかを判断します。シンガーは脊椎を持つ動物を食べないという類の菜食主義が倫理的だと考えます。なぜなら、脊椎を持たなければ、苦痛を感じることもないからです。シンガーは、功利主義の立場から菜食主義を正当化するわけです。


シンガーの「何を食べるのが正しいか」という問いに対して、真正面から「対決」するような思想を、デリダは主張しています。デリダは、もし生き延びるために食べるということを行うのならば、それはどうあっても正しい、あるいは正しくあるべきだと述べます。「何を食べるのが倫理的か」というシンガー流の問いから、他者を「善く」自己の体内に取り入れる、あるいは自己を「善く」他者の体内へと取り入れられることに関する問いへと変換する。ここで著者が着目しているのは、デリダの言明から、生命倫理学がともすれば陥りがちな「(食べてよい、という)境界線の画定とその正当化」によって道徳を基礎づけようとする態度を徹底的に排除しようとする姿勢がうかがえるという点です。


つまり、「どの」他者を食べてよいか、ではなく、いずれ他者を食いながら生きざるを得ない以上は、真に道徳的な問いとは、「いかに正しく」他者を食らうか、ということである、とデリダは述べています。このようなデリダの理解を踏まえれば、生命倫理学、とりわけシンガーのような「境界線の画定とその正当化」に主眼を置いたものは、「狂気」を「正常」へと差し戻されることになります。「供犠」とは、「狂気」であるべき殺害に他ならないのに、それにもかかわらずそれを隠蔽するために「狂気」であることを否認するという「正常化」なのだということです。


シンガーの言うような菜食主義も、植物のいのちを奪うことには変わりはなく、「殺害の否認」として「死に至らしめる」こともまた、このデリダの言明によって批判されます。まさに、「〈生ける主体〉とは何か」、すなわち、そうしたメンバーシップを画定し、規定し、正当化することによって、「殺害」を巧妙に隠蔽しているのです。


森岡正博氏のシンガーに対する考えが引用されます。「悪い行ないに手を染めないためには、どうすればいいか。そのためには、その殺害行為を理論的に「悪くない」と言いくるめてしまえばよい」


倫理的にどのような行為がよい行為か、どのような行為が悪い行為かを画定することに意味がないとは思わない、と著者は押さえた上で、行為のよし悪しをこのような正当化という手法によって判断するような思考法には、大いなる欺瞞があると指摘します。この私が行ってしまった、あるいは行ってしまわざるを得ない「後ろめたい」行為とどう向き合うのか、という視点に欠落しているのだと言います。

動物の肉を食らうとき、その動物を殺戮しなければ私たちの口には入らない。そのことを思えば、たとえ技術が発達して、功利主義的には問題なく「安楽」に殺すことができたとしても、その動物のいのちを奪うことには、私はどうしても後ろめたさを感じる。同時に、「では菜食主義であればよいのか」と自問するとき、「菜食主義は倫理的に正当化される」という言い方もまた後ろめたさを隠蔽するような物言いになると思うのだ。植物に自己意識も感覚もないとしても、太陽のほうへ向かって伸びる営為は、たとえそのスピードが遅くても、確実に生あるものだとは言えまいか。だとすれば、動物を殺して食べるのと同じ後ろめたさを、私は植物に対しても感じざるを得ない。そのうえで、私たちは何かを食らうことなしには生きてはいけない。つまり、私たちが生あるものを殺し、食べるということは、事実として「私が食らう生よりも、私の生のほうを優先している」ということである。私は、肯定されるべき生を殺し、食らっていることによってしか生をつなぐことはできない。肯定されるべき生を殺すことが悪ならば、私は悪を行っていることになる。ここを思考の起点にしよう、そう私は主張しているのだ。

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参考文献
・野崎泰伸(2009)『動物からの倫理学入門』の一つの読み方――倫理・正当化・正義.
http://philosophy.cs.kyoto-wu.ac.jp/material/nozaki_kemono_comment.pdf
伊勢田哲治(2008年)動物からの倫理学入門名古屋大学出版会.