歴史的価値としての生物多様性の保全 / 平川浩文 (2001年)



実は、生態学的に見て「正しい自然の姿」というものは存在しません。人間のものの見方・感じ方・ 考え方は目の前の自然の姿に強く支配されていると考えられており、その中で「自然がどうあるべきか」を模索し、自然のあるべき姿に関する主張の一つが「生物多様性保全」です。


保全生物学者とは「生物多様性保全」という目的実現のために科学 (生物学) を行う者と定義されます。保全生物学者は単にその目的を受け入れて科学するだけでなく、しばしば自らその目的である「保全」を主張することがあります。


しかし、科学とは方法論であり、客観的に物事を知り、それを支配する法則を解明しそれらを元に予測をするための方法論です。したがって、保全生物学者の保全の主張は科学に基づくものではあり得ません。その主張はそれを主張する個人の価値判断によっていることになります。


生物多様性」の定義にはさまざまなものがありますが、最大公約数的な定義は「生物世界 (生物学的自然) に見られる変異であり、さまざまな 階層の多様性を含む」というものであると紹介されています。階層にわけると、ミクロなところから、遺伝子・個体群・種・群集 / 生態系・ランドスケープなどがあります。しかし、「生物多様性保全」となると、この定義からはすぐにわかりません。


生物多様性」は計測・比較可能な定量的概念ではありますが、その数値が高いことが「いい」状態なのか、数値が高い自然の方が低い自然よりも「保全価値が高い」のか、そういった保全議論は成り立ちません。したがって、現在主流ともなっている「生物多様性の価値を証明しよう」と試みる科学者たちの企ては、「生態学的曲解」であるといえます。「生物多様性」が保全の観点で有効なのは,その喪失を変化量 (要素の損失量) として示すことができる点においてのみとされます。


ここで著者は、生物多様性保全の主張を支える価値観とは何だろうかと問い、それは歴史的価値観ではないかと答えます。この歴史的価値とは、著者は、特に理由もなく歴史的存在に対して人が「感じる」価値であり、それに抱く気持ちのことです。何かが失われようとするときに、特に理由もなくそれを失いたくない気持ちでもあり、またそれを失った場合にはそれを取り戻そうとする気持ちのことでもあります。


生物多様性の価値論には、大きく分けて、功利的価値論と内在的価値論があると紹介されています。しかし、功利的価値論は、喪失を容認する論理にもなるため、両刃の剣であるのに対して、内在的価値論は、人が大切に思い保全しようとするものに対して感じるものであるため、明確な説明はできませんが、生物多様性保全の主張の根底にあるものだと述べられています。そして、内在的価値と呼ばれるものの本質は歴史的価値ではないかと考えています。


生物多様性保全は、人為による急激な自然の変化に対する抵抗運動であって、「人為そのもの」に対する抵抗ではありません。場合によっては、絶滅種の導入や自然の復元といった積極的な人為的介入も行われえます。里山保全が主張されるのも歴史的価値観によるものであり、里山や田園風景の保全といった文化的保全もまた歴史的価値観に支えられていることになります。


しかし、功利的価値観と歴史的価値観が一致しないような場合は、功利的価値を根拠とした主張の方が勝る可能性が高いと著者は指摘します。なぜなら、歴史的価値はそれが歴史的存在であるという以外に具体的な理由なく感じる価値であり、保全の訴えは共感に頼る部分が大きいからです。各個人が保全したいと思った場合、それを理論的根拠を見いだすために、功利的な考え方に発展させる場合もありえます。


このように歴史的価値観は人間の持つ多様な価値観の中の一つに過ぎず、相対的に力の弱い価値観であるがゆえに、生物多様性保全を推進するためは、歴史的価値観以覚のさまざまな価値観との対立や調整が避けられないのではないかと著者は考えています。

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平川浩文(2001年)歴史的価値としての生物多様性保全.日本生態学会関東地区会会報 49:8−12.
http://cse.ffpri.affrc.go.jp/hiroh/publications/HistoralValue.pdf