ツールとしての英語

日本人の多くは様々な目的のために英語を勉強しているのだろう.僕の頭の中で英語は,日常会話のため,世界標準語だから,研究論文のためといった目的のための手段(道具)として存在している.これらの目的の中でも研究論文を書くためという目的の比重は大きいように思われる.論文を書くための英語とは,どのようなものだろうか.それはある意味では,日常会話としての英語と対照的な部分があるように思える.僕はそもそも日常会話,すなわち声や表情,ジェスチャーを用いたコミュニケーションは非常にあいまいなもので,文法にそれほど厳密になる必要はないと思っている.一方で,論文などの文字を書くことによって行われるコミュニケーションでは,文法や単語に非常に厳密になる必要があると思う.従って,コミュニケーションのよりよいツールとして扱うには,音としての英語と文字としての英語の両方を磨く必要があるのではないだろうか.
さらにここから飛躍して考えるなら,人とコミュニケーションをとるということにも表と裏があると思える.もしかりにコミュニケーションを他者との知識の共有であると考えるなら,人と話すことで知識は得られるが,受けてばかりでは長くは持たないだろう.逆に,こちらから相手に知識を与えるためには,自らがニュースや書籍から知識を得ておかなければならないのではないだろうか.