「研究が終わってから」という論理的矛盾

多くの人は,たくさんの量の仕事をする場合,「優先順位」をつけて,順序良く,秩序立てて,こなしていく事が合理的で効率的なプロセスであると思っているだろう.僕に関しても,「大切だ」と思われることからこなしていく.いわゆる「要領のよさ」と呼ばれるものを身につけることで,大量な仕事もこなせるようになる.
しかし,どのように優先順位をつけるかは,その人の判断であり,ある意味では「センス」が問われることである.やってみないとわからない場合もあり,後悔する場合もあり,またその過程でパニックに陥ることもあるかもしれない.とは言っても,これはやはり「優先順位をつけるのが,最良の道だ」という強い信念に基づいている.
今回は,これよりさらに一歩ひいて考えてみたいと思う.このような定式化された手順は,どんな事柄に対しても当てはまるのだろうか.何を言いたいかと言えば,「Aは,Bの後ですればいい」ということで,大事なことを忘れているのではないかということだ.「〜の後でいい」という言葉によって,目の前にあることから逃避しているのではないだろうか?本質的に分割できないことを,無理に切り裂いているのではないだろうか?
なぜこんなことを言うかと言えば,僕の友達の中で,僕が哲学を勉強していることに対して,「研究が終わってからでいいのでは?」というアドバイスをくれる人がいるからだ.「研究が終わってから」という,一見,論理的に思えるこの言葉は,矛盾していると思われる.なぜなら,僕にとって,「(研究室で)研究していること」と,「哲学を勉強していること」は表裏一体であるからだ.
だから,前も後もないわけで,「私は今研究している」ということは,仕事量として分割不可能だ.その中に寄生バチ,生態学,生理学・・・哲学,環境倫理というジャンルがあるわけだが,ある意味ではどのカテゴリーも一つのこと,すなわち,「私は研究している」ということを指している.
このブログでは,敢えてカテゴリー化をして,研究,哲学としているが,それは読んでくれている人がわかりやすいようにしているだけであって,自分の中では「研究をしている」ことには変わらないわけで,優先順位も,合理的・効率的といった観念も存在していない
誤解はされたくないので,伏線は貼っておくが,これは,アルバイトに遅刻したり,友達との持ち合わせに遅刻した場合に,「僕の中で優先順位なんてない」といいたいというわけではない.
自分が日々考える中で,優先順位をつけてしまうことで取り逃がしてしまうこともあるのではないかといいたいだけである.また,自分に関して,研究を,「仕事」,「ルーチンワーク」,「ノルマ」として考えてしまうことはしたくないと思っている.例えば,「このハチは,何が見えていて,何が見えないのか?」と疑問に思っただけでも,それに答えるためには,ジャンルを超えた膨大な過去の研究を探っていくこと実験が必要である.だから「終わり」なんてないわけで,敢えて「終わり」と言うなら,「自分自身が研究をしつくした」と思えた時ではないだろうか.しかし,人間の一生の間にそれを成し遂げた人なんていないし,ましてや自分がそうなるとも思っていない.