自分にとって「哲学」とは「余裕を持つこと」

「今まで読んだ中で一番感銘を受けた哲学者,もしくは,哲学書は何?」と聞かれると,意外と返事に困ってしまうのが,僕の本音だ.理解したとは決して言わないが,ハイデガーフッサールベルクソンデカルト,カント,ドゥルーズサルトルレヴィ・ストロースラッセルに関する二次文献あるいは,入門書を読んだ感じでは,面白いなと感じた.といっても,オリジナルを徹底して読んだわけでもないので,なんとも言えない.しかし,オリジナルを読めば,「真理」が得られるのかと言えば,そんなこともなかったりする.また,膨大な経験量(サンプル)でなくても,ある程度の経験量があれば,そこから,帰納的に仮説を導くことができるのも人の能力だ.
また,やはり僕は,普段の研究を土台にして問題意識を持つことが多いと思う.科学,生物学,行動学,環境倫理など.これらの研究に近いところから,哲学に入っていると思う.自分の性格上(動機付けをしたい方なので)も,いきなりバタイユニーチェあたりに飛ぶってことはないのかもしれない(わからないけど).だから哲学の中でもカチッとした分野のものが,今は好ましいのだと思う.
忘れてはいけないことは一つある.それは,僕の専門は,寄生バチであり,哲学研究ではないということだ.哲学研究者から,どう思われようと,自分の本分を忘れてはならないと思う.哲学研究者の文献の読み方と,僕の文献の読み方は,違っていてもいいと思っている.なぜなら,費やせる時間に歴然とした差があるのだから.
僕にとっての「哲学」とは,当たり前と思って素通りしてしまいそうになるところ(大前提)を,一歩立ち止まって考え直してみる「余裕」である.それが得たいのだ.初めから,目的ははっきりしている.「自分の物事を見る目を養いたい」ということだ.
今のところ,「何かを得た」とは思えないし,この先もありえないだろう.しかし,曲がりなりにも「答えのない問い」にぶつかってみると,自分の意識の改革が引き起こされる気がする時がある.また,相手の話を聞くという行為,自分の考えをわかりやすく伝えるという行為,いわゆる言葉によるコミュニケーションをとることに関しては,その度に「何か得るもの」があると感じられる.
(この文章は,自分の頭を整理するために書いたものです.自分に対する批判です.)