プルースト『失われた時を求めて』を読む / 鈴木道彦 (2009年)

[rakuten:book:13160786:image]


★大学院時代にベルグソンの『時間と自由』を読解するにあたって、記憶をめぐる議論を行う時に、しばしばプルーストのマドレーヌの話が引き合いに出されました。時間があれば読んでみたかったプルーストの『失われた時を求めて』。結局、今まで読み損なってきました。13巻もあるのでなかなか手がつけられなかったのもありますが、この度、本書著者による新訳がでたというのもあり、もしかすればチャレンジするかもしれません。
原作を読む前に、このように解説本を読むことは、邪道でしょうか。自分はよくやってしまいます。しかし、原作を読む代わりになるとは毛頭思っておらず、まったく別物として捉えています。
普段の生活でも何かモノを見たり、香りを嗅いだり、音を聞いたりしたとたんに、なにか懐かしい気持ちに包まれることがあります。しかし、大抵の場合は、その理由はよくわからないし、ときには追求することに労力を要することがあります。『失われた時を求めて』の冒頭で主人公が紅茶に浸したマドレーヌを口にしたとたん、この上ない喜びに満たされるという挿話は、まさにそれです。物語の初期では、主人公はそれがなぜなのかを理解することはできませんが、物語が進むにつれ、記憶や印象を言語化する、すなわち無意思的知覚の知性化が行われていきます。この過程は、最終的に語り手と主人公が一体化するまでの過程でもあると言われます。全生涯の体験が、たとえどれほど無駄に過ごされた「失われた時」に見えようとも、いずれの何かの徴(シーニュ)として、解読を求めているのです。その解読すべき書物がどこか外部に転がっているのではなく、自分の内に存在している。自分と一体化していることを自覚するというのです。
このプルーストの『失われた時を求めて』から解釈される「読書論」は、非常に意味が深いように思えます。これに準ずれば、ある物語を読むことにより、自分でも気づいていなかった自分自身の問題や、他者との関係や、人間の心理や、日常生活の微妙な意識などについて、より自覚的になることが可能であると思われます。