音楽と坐禅

昔からの癖で、自分の部屋のテレビのスイッチをつけなくなるときがあります。下手をすれば2週間、3週間と続きます。といってもネットはこのようにいつも通りにやっています。テレビを見ないのは、その重要性を感じなくなるからではありません。面白い番組などとてもたくさんあります。ニュースにしても映像としてみることは、一度にたくさんの情報が得られる最も良い手段のひとつだと思います。


同じようにあまりテレビをみないという人がいたので、話してみました。そうしたら、その人はテレビは見ないけれども音楽はずっと流していると言っていました。なるほど、自分もそういう傾向があります。ステレオから音楽を流しているときは、テレビの音を消したほうが賢明です。テレビか、音楽か。どちらかを選択していると理解すれば、そうなのかもしれません。すなわち、音楽を聴きたいから、テレビを消しているとも言い換えることができます。


しかし、残念ながら、何かが違うような気がします。はっきり言えば、音楽を聴きたい心境だから、音楽を流し、能動的に聴いているのです。テレビのスイッチを入れることによって、音楽を聴きたいという欲求が満たされるのであれば、そうするはずです。しかし、それはなかなか叶いません。そのように考えると、DVDをみることは、自分の感覚では音楽を聴くことに近いものがあります。


昨年から坐禅もやるようになりました。ここ最近ほぼ毎日やってしまって(?)います。食事やなんやらの日常的な事を早い目に片付けて、坐ります。ふと気づいたことは、音楽を聴きたいなということと、坐ろうかなという気持ちのベクトルは似ているような気がしたということです。それなら、音楽を聴きながら、坐ればいいのではないか、とご指摘があるかもしれません。リラクゼーションにはなりえても、それは少なくとも「坐禅」の教義からは外れてしまいます。坐禅は、体調が悪いとき、眠いとき、酔っ払っている時などには行ってはいけないと聞きました。また、姿勢も大切で、靴下や時計も着用してはいけとされています。さらにいうなら、周りの環境(部屋)も大切です。


ただ、こういった行為は「自然」にそうなってしまっていて、いまこうやって反省してはじめて自覚的になっています。そういうふうな時間を取ることは、歳をとるにつれて少なくはなってはきているきもしますが、それでも、ある程度とっていかないとバランスが悪くなるのかもしれないと思いました。自分のあるがままに従うのみです。と締めくくりたいところですが、こういうときの「自分」ってなんだろうと気になってきます。これに「持続」が重なりえるのかもしれないとも思いますが、またしばし考え直したいと思います。