禅とは何か / 鈴木大拙(2008年)

新版 禅とは何か (角川ソフィア文庫)


★本書は、1926〜28年に大阪妙中寺で行われた計10回の連続講演の記録に基づいて1930年に『禅とは何ぞや』のタイトルで出版されたものを改題し、新たに解説を加えて再版したものです。
仏教では、第一に人生は苦であるということを認めます。いろんな苦しみがあるとは言え、確かに生きていくことは苦しいです。その苦しみは不平があるから生じるのだと言われます。完全にできていて、何もかも都合がよいと、不平がなくなり、苦しみもなくなります。逆説的な言い方に聞こえますが、こういうことらしいです。すなわち、生きるというためには刺激が必要である。刺激は不平を生じる。したがって苦しむ。苦しむから生きて行く、ということなんです。
一方で、仏教では縁起というものごとの捉え方をします。これは、個々のものは、まるで網の目を形成するかのように、すべてのものと繋がっている。今風に言えば”エコロジー”の考え方です。そうであるがために、ある「個」というものは、とても揺らぎ易いといえます。なぜなら、個は絶対的にひとつだけで成り立っているのではなく、他のものとの関係によって成り立っていると考えるからです。このような状態であるから、時に、ただなんとなく不安の状態ができてくることがあります。よくわからないけど、何か取りとめのなきように、それを経験します。この不安というのは、自分というものと全との関係から出ていると言われます。こういった経験は宗教的経験と呼ばれています。さらに、何のために自分はいるか、何のために生きてこうしているかという風に、何のためということが問題になってきます。


この宗教的不安を拭い去るためには、その仕組みをまず理解する必要があるように思えます。仏教的に言えば「縁起」をよく心得る。今風に言えば、”エコロジー的”に考える。そして、ベルクソンの概念に「開いた社会」、「閉じた社会」というものがありますが、それぞれは、かなり乱暴かもしれませんが、仮にここではほぼその言葉から想起されるような内容の概念であるとすると、やはり「開いた社会」化により不安が解消されうるのではないかと思いました。ここのプロセスには大変な苦労や苦痛がともなうと思います。「閉じた」状態から「開いた」状態へと個人の精神、行動が変化することを、時に「回心」というのかもしれません。偉大な宗教家という人々はこのようなプロセスを経たのではないか、そういうことも考えました。