新編 東洋的な見方 / 鈴木大拙(1997)

新編 東洋的な見方 (岩波文庫)


★本書を読んでいて、ふと思いました。いつから、自分は「自然」と「人間」は対をなすものであり、また「自己」は「環境」に対峙するものであるという認識を得るようになったのだろうかと。


もしかすれば、西洋の文化が日本に入ってきたときに、英語のnatureの訳語として「自然」が採用されたのが、ものごとの混乱のはじまりなのかもしれません。本来、「自然」がはじめて用いられたのは老子の『道徳経』であり、その意味は「道は自然に法る」だそうです。すなわち、「自ずから然る」の義で、仏教では「自然法爾」と言われるようです。他からなんらの拘束も受けず、自分本具のものを、そのままにしておく、あるいはそのままで働くの義です。松は松のごとく、竹は竹のごとくで、各自のその法位(あるがままの姿)に住するということです。さらに、静的な「自然」に対して動的な「自由」という語も生み出されました。ものがその本来の性分から湧き出ることが「自由」とされます。抑制も牽制もなにもない、「自(みずか)ら」または「自(おのずか)ら」出てくるので、他から手の出しようのないとの義です。


一方で、西洋のnatureには東洋的な「自然」の義はまったくないといっても過言ではないようで、natureは自己(セルフ)に対する客観的存在で、相対的な世界です。しかし、「自然」には相対性もなく、客観的でもないとされます。その逆で、主体的で絶対的です。西洋のnatureが二元的で「人」と対峙し、相克するのに対して、東洋の「自然」は「人」を入れています。西洋のlibertyやfreedomにも、自由の義はないようで、消極性をもった束縛または牽制から解放せられるの義だけです。


西洋の哲学や思想の文脈をたどっていくと、このような対立関係の超克を示唆するような思想がしばしばみられるように思います。人間と他の動物、あるいは環境と自己の連続性を示唆した上で、現在の環境問題の解決につなげていこうとするような言論があるように思えます。それはやはりキリスト教の教えが、人間とそれ以外の動植物の乖離を示していることが文化の土台にあるからなのでしょうか。
近代まで日本の文化の土台になってきた思想のひとつ仏教では、確かに人間と他の動植物(ときには石などのモノまで)の間に厳密な境界線を引いたり、あるいはその連続性を説き直したりするような教えはないように思えます。同じように、自己と環境、内と外、自己と非-自己、存在と不在の境界線を意識させたりするような考えもないように思えます。したがって、現代の日本人は、乖離の超克というやらなくてもよいことをやっているとも思えますが、現代は西洋的ものごとの見方がかなり浸透しているので、やはり考えないわけにはいかないのかもしれません。


ここから話が個人的になりますが、院生の頃、僕はある外国の人に「あなたの夢は何ですか?」と話の流れから聞かれたことがありました。その時の自分の答えは「自分らしくあることです」でした。その時はこの答え方がベストだと思って答えたのですが、本書を読んで再認識しました。それは「自然」あるいは「自由」という語が含む意義に近いのではないかということです。


また、これも自分がほとんどナイーヴに小さい頃から持っている感覚ですが、「自分」というものは、どうもあいまいで、絶対的ではない、もっというと、まずさきに自分ありきではうまくいかないということです。まあ、当事者能力がない。意志薄弱といわれてしまえば、お終いですが。これも最近思うことは、自分がどうして自分以外の人間ではなく、なぜ自分であり続けなければならないのかと不思議に思うこと、すなわち独我論とほぼ同じ意味ではないだろうかということです。これに関しても、仏教ではすでに説かれていることを知り驚きました。それは「無常」「無我」「縁起」という考え方です。簡単に言うと、周りの環境(人間関係)によって自分なんていくらでも新しい自分になってしまうということです。ある時は兄ちゃん、ある時は子ども、ある時は親にもなれるといった感じにです。