熊の親切、ウサギの迷惑-レヴィナスとマルクス

先日紹介した合田正人著『レヴィナスを読む〜〈異常な日常〉の思想』 の中でレヴィナスの視点からヨーナスへの批判として、「遠き未来や動植物への責任を語ることが、近き者たち、人間たちを傷つけ虐待することの口実になることはないのか」という指摘が挙げられていたことについて、ずいぶんと考えさせられました。ヨーナスのことを批判する前に、レヴィナスの思想についてもう少しイメージを持ちたいと思いました。


熊の親切、ウサギの迷惑-レヴィナスとマルクスという論文を読み、自分がこころの中で感じていたことと近いように思えました。


レヴィナスの「同」とは同じ信仰を持つもの(自分の物語)として他者を取り込むことと解釈されています。「同」としてみなすというのは、自分にとっての物語を押し付ける、その中で語ってしまうという意味での「同」であり、その次元で語られる敵や異物というものも「同」と考えられます。では、他者に対して救いの手を差し伸べることは、すべて「同」となり、困っている人に対してなすすべはないのでしょうか。そこで持ち出されたのがキリスト教に特徴的な「ケノーシス(謙虚さ)」という態度です。ただし、この「謙虚さ」が度を過ぎれば、すなわち、他者との溶解が自我境界をもたないままに行われると、無責任と自己愛を生み出すのみと指摘されます。この「謙虚さ」を持ちえないとされるユダヤ教では、自己中心性が強まりすぎ、一方的に他者の「同」化が進む嫌いがあると言えます。結局、レヴィナスの思想で主張されていることは、「謙虚さ」により自我(自己中心性)を最小限にした上で、隣人と対面し、手を差し伸べるという行動の愛をとるという接し方が高く評価されるということでしょうか。