レヴィナスを読む〜〈異常な日常〉の思想 / 合田正人 (1999)

レヴィナスを読む―「異常な日常」の思想 (NHKブックス (866))


★目次
序章 書物の浜辺―今、なぜレヴィナスなのか
第1章 境界の思考
第2章 孤独というドラマ
第3章 他者とは誰か
第4章 家政術と商人術
第5章 界面の倫理


エマニュエル・レヴィナスは、日常の小さな出来事を極度に重視した思想家であったと言われます。本書の一節では、環境倫理の重要な考え方のひとつ「世代間倫理」を提唱したハンス・ヨーナスとレヴィナスとの思想的交錯について論じられています。


ヨーナスは、現象学では「飢え」が扱いきれていないことから、この新しい倫理の構築に勤しんだと言われています。その際、ヨーナスは古き倫理として、次の4点を挙げています。


第1に、「技術」に対して中立的な態度をとってきたこと。第2に、人間同士の関係にのみ眼を向け、「自然」を人間の「責任」の対象とはみなさなかったこと。第3に、人間なるものの本質(との条件)が、ほとんど変化しないものとして捉えられてきたこと。第4に、行為者とその対象との短時間の交渉のみを考慮してきたこと。


これらに対して、ヨーナスの新しい倫理とは、どのようなものでしょうか。要点を5つ挙げます。


1.倫理の人間中心的な性格を破って、自然全体にも「責任」の範囲を拡げなければならないこと。
2.新しい倫理は個人の倫理的完成をめざすものではなく、人類の共同行為としてとらえ、さらには共同責任が要請されること。
3.「同時性の倫理」ではなく、「水平的な通時性の倫理」、それも「遠い未来の倫理」の必要性があること。
4.たとえ未来の世代が私たちに対し義務を負っていないとしても、私たちは、彼らが生存する権利を奪うことはできないし、それを奪うことがないよう行為しなければならないこと。
5.人類は存在しなければならないこと。


これに対して、レヴィナスは、「未来世代」も「私の家族・部族」であり、N人に拡張可能なものであるとはいえ、「第三者」も「隣接性」によって規定されるに過ぎないとします。どんな異形の自然も絶対的に他なるものではなく、人間にとっては人間のみが絶対に他なるものであるという見地に立って、意図的に人間中心的な性格を倫理に付与し、人間的なものを、社会構造や歴史の変化を貫く定数のようなものとみなします。そして、技術はいつか飢えた人々に糧をもたらすことになるだろうと予言します。


ヨーナスの新しい倫理は、地球上の人類といったように、マクロな視点であるのに対して、レヴィナスの視点は、個人、家族、地域的市民、民族といったように、ミクロな視点であります。本書著者はレヴィナスの視点にたって、ヨーナスの議論は結局、長い迂路を経た人間中心主義ではないかと指摘します。すなわち、ヨーナスの「人類は存在しなければならない」が究極要因であるとしても、人類の存続の条件である限りで「自然」に対する責任が語られるのだろうか。その場合、人類の生存を脅かす「自然」はどうなるのか。人間から見た「自然」の位階構造は維持されるのか、と言及されています。


応用面についても言及されており、ヨーナスの哲学では、結局は、ある地域のある階層の人々の「生存の質」を強引に普遍化して投射するほかないのではないかと危惧されています。すなわち、ヨーナスの言う「真に人間的な生活」は、いかにしてその基準を決めるのか。地域や国ごとの格差をどう処理すればよいのか。マルサスの見地にたって人口の問題として未来世代への配慮が逆に未来世代の生存の可能性を狭めることはないのか。エネルギー消費についても、各国の気候や文化のあり方、人口の多寡や産業化の度合いがまずあって、それをどのような比率規制するのかという問題も出てくるだろう。それに何よりも、遠き未来や動植物への責任を語ることが、近き者たち、人間たちを傷つけ虐待することの口実になることはないのかと、ミクロの倫理を介してしか、マクロな倫理を語ることができないことが述べられています。