アーレントのイエス論

自分はどうやら「赦し」あるいは「慈悲」というものに興味があるようです。以前に、ドストエフスキーの『罪と罰』や『カラマーゾフの兄弟』を読んだり、ユリウス・カエサルの寛容(Clementia)について知ったりして、余計に考えるようになりました。


この度、森一郎著の論文「アーレントのイエス論()」を読みました。この論文を読解することにより、少し勉強をしたいと思います。上では、『人間の条件』の第10節を中心に、下では第33節を中心に考察がなされています。結論だけを掻い摘んで述べる形になりますが、アーレントによれば、公的領域における罪は、人格への尊敬によって赦されるというのです。

愛はそれ自身の狭く区切られた分野に留まっているのにたいし、尊敬はそれよりも広い人間事象の領域に存在する。尊敬とは、アリストテレスの「政治的友愛(ピリア・ポリチケー)」と似てなくもなく、一種の「友情」であるが、親密さと近しさを欠いている。それは世界の空間を間にはさんで眺めた人物への敬意である。そしてこの敬意は、もともと私たちが称賛する特質や、私たちが高く評価する功績とは関係がない。だから、たとえば、近代によって尊敬が忘れられたということ、あるいはむしろ尊敬というものは称賛や高い評価が与えられるからこそ生まれるという確信は、公的・社会的生活の非人格化が進んでいる明白な印である。ともあれ、尊敬というのはただ人格にのみ関心をもつものである以上、ある人物が行った行為をその人のために許すのには、尊敬だけで十分である。(『人間の条件』第33節.志水速雄訳)

これは自分の倫理観かもしれませんが、被害者による復讐欲に駆動された報復というものをみていると心が苦しくなってきます。さらに、被害者の気持ちを察するとより苦しさが増します。底なしの沼のように見えてきます。


アリストテレスの『弁術論』の中に

報復と懲罰は別のものである。なぜなら、懲罰はそれを受けた人のためにあるのだし、報復はそれ行う人のためにあり、その気持ちが満足することを目的としているからである。

と、あります。ここで言われている気持ちとは復讐欲のことです。懲罰とは、罰せられる人、つまり犯罪者自身のためになされるという意味です。被害者の気持ちを満足させることを目的として、罰を行う場合、罰することができない、すなわち、赦すことができないものに対しては、半永久的に罰が続きかねません。「罰とは合法的復讐である」という言葉の通りです。


それでは、何によって罪は赦されるのでしょうか。アーレントの答えはこうです。「<何>によって、ではない。<誰であるか>によって、なのだ」と。<赦すことのできる人>であるかどうかこそ問題の中心だという意味でしょう。


ここでの、モノではなく、ヒトという観点は確かにキリスト教から得られた態度であるとするものの、アーレントは、個人間の愛および博愛といったキリスト教的「愛による赦し」という反政治的な可能性に期待は寄せていません。


結局、アーレントが政治・社会的(公的)領域において赦しの可能となる条件として挙げているのは、「尊敬」という人格的関係です。


他者に対する気遣いには二つの態度があって、一つは世話焼き型の態度、もう一つは放任型の態度です。アーレントのいう尊敬は、後者に近いと考えられます。本人が解決すべき問題はその人自身にゆだねて任せること。ただし、全くの無為ではなく、自分自身の生き方の手本を示すことによって、他者が自分に固有な生き方を自分でつかみとるようほのめかすのです。


「復讐」も「処罰」もしない、という仕方での「赦し」は、むしろ「新しく始めること」だといわれます。相手の「罪」を打ち消すことによって、取り返しのつかない過去のしこりを「一新」するということです。人間だれでも自分自身に許しを与えることができない、とアーレントは言います。「世界(公的領域)」においては、われわれは他者に依存しており、他者によって、当人の<人格>は形成されていると考えているからです。


この「尊敬による赦し」の考え方をもとに、日本と中国、日本と米国の関係について考えてみると、何かひとつのあり方が見えてきそうな気もします。