生命は最高善か

キリスト教による生命と世界の転倒が、その後に起こった行為と観照の転倒と重ね合わされたとき、それが近代の発展全体の出発点となった。<活動的生活>は、<観照的生活>という原理を失ったときになってはじめて、まったく文字通り活動的生活となった。そしてこの活動的生活が唯一の原理として生命に結びつけられていたからこそ、生命そのもの、つまり人間が労働を通じて行う自然との新陳代謝が、活動的となり、生命の繁殖力を完全に解放することが出来たのであった。(『人間の条件』第44節.志水速雄訳)

活動的生活を実践的生、観照的生活を理論的生と訳すとわかりやすくなるかもしれません。さらに具体的には、観照的生活とはソクラテスのような哲学者的な生活といえるかと思います。


アーレントは、生命が最高善であることの起源はキリスト教にあると指摘しているのです。古代ギリシアでは、プラトンが奴隷を軽蔑したのに対して、キリスト教時代には自らの生命を絶つことの方が奴隷であることよりもより悪であるとみなされたと言われます。


現代の社会は、もしかすれば、生命あるいは生活する(生きていく)ことに最も価値が置かれている時代であるのかもしれません。今後も科学技術の発展にともない、その傾向が強まる可能性があります。


しかし、アーレントが「生の神聖さ」を現代の問題として取り上げたのは、生の価値を否定するためではないと思われます。そうではなく、社会の構造として、生の優先が「自明の真理」となって、人々が生に対して問いかける能力が奪われていることを指摘するためではないでしょうか。全体主義的な生命至上主義になることを批判しているのでしょう。


ソクラテスの言葉に、

もっとも大切にしなければならないことは、生きることではなくて、善く生きることである。(『クリトン』久保勉訳)

というものがあります。「人間らしい生」とは、「ただ生きる」ことではないのだと言われています。「ただ生きる」というのは、アーレント的に言えば、私的領域に閉じ込められて、<労働>と<仕事>により得られた報酬により、なかば機械的に(あるいは家畜的に)生活することになるでしょうか。


一方で、「善く生きる」、すなわち「人間らしく生きる」とは、生に対して問いかけながら生きることと解釈できるのではないでしょうか。それは何らかの生の観念を抱きながら生きるとも言えるのかもしれません。そのあり方として、自律的に生きる、何かの宗教の教義に従って生きる、人類に幸福をもたらすことを目的に生きるなど、様々な在り様が存在しうると思います。


冒頭のアーレントの主張を鑑みると、各自が生に対して問いかけるという精神的(観照的)活動を営み、かつ公的領域(社会)で実践的に活動していくことが大切であると説かれているのではないだろうかと思いました。