「本当の自分」

東京の禅道場で坐禅指導などしていると、色々な人がやってくる。もちろん坐禅に関心があるのだろうが、ある種の不安や屈託を抱えてやってくる人もいる。中でも若い人に多いのは、「自分のしたいことがわからない」「本当の自分が知りたい」という悩みである。 こういう話を聞くと私はよく思う。発想を変えろ、と。案外「自分は他人の役に立つ何ができるのか」を考えた方が、早く「自分のしたいこと」がわかるのではないか。「本当の自分を知る」ことができるのは、目の前の他人が自分にとってどういう存在なのか知ることによってではないか、と。
http://indai.blog.ocn.ne.jp/osorezan/2009/09/post_5b95.htmlより

自分も、興味の向くままに書籍を読み、他人の意見を聞いているうちに、ひとつ、ふたつと自分の血となり肉となった考え方があります。そのひとつは、「本当の自分なんてどこにもいない」というものです。どこかに行けば、あるいは沈思黙考して探していけば、本当の自分が見つかるという考えはありません。そこで見つかるのは、その場での自分です。いわゆる「自分探し」というものは、言葉のあやくらいに思っています。


坐禅をしてみようと思ったのは、もちろん「自分探し」のためではありませんでした。その時にはすでにそういう考え方はなくなっていました。きっかけとして挙げるなら、「自分に対して自覚的でありたい」となるでしょうか。仏教的に考えていくと、すなわち、「関係性」というものを考えていくと、自分に対して自覚的であるということは、周りの人、あるいは環境に対しても自覚的であるということだと思います。


「本当の自分なんてどこにもいない」は、いいかえると、本当の自分は、その時々、その場ごとに生じているといえるかと思います。「他人を目の前にして、自分がどういう存在なのか知ることが大切」だと、身をもって感じています。