女が愛した作家 太宰治 / 田口ランディ (2009年)

こだわり人物伝 2009年10ー11月 (NHK知る楽/水)


★目次
第1回 ロックな作家 角田光代
第2回 モテる作家 辛酸なめ子
第3回 おもろい作家 西 加奈子
第4回 刃を自分に向けた作家 田口ランディ


太宰治生誕100年ということであちらこちらで太宰の名前を耳にします。自分も10代のころに、『人間失格』、『斜陽』、『走れメロス』を読んだことがあります。しかし、のめりこんだわけではありませんでした。


当時の自分の言葉として表現するなら、「暗いけど、明るい」となるでしょうか。『人間失格』、『斜陽』を読む限りでは、これらの小説の主人公は、どうしても太宰本人に見えてしまいました。結果、自殺未遂を何度も繰り返し、自殺した太宰に100%共感はできなかったというのが正直なところでしょうか。


本書には田口ランディさんの『刃を自分に向けた作家』が寄せられています。その中で、読み手は善悪の区別がつかなくなるという指摘があります。もしかすれば善人こそが小悪人なのではないか、善人であるということは、どこかで誰かの犠牲を強いているという証なのではないか、と次第に錯覚に陥ってゆくと述べられています。太宰の思っていた悪人ではない人は、「白痴」くらいだったのではと言われます。


そこで、『人間失格』の葉蔵と、ドストエフスキーの『白痴』の主人公、ムイシュキン公爵が挙げられています。確かに両者は、無垢さの点では共通しているけれど、違うと述べられています。葉蔵は、薄い氷を踏むようにして現実生活に適応してはいるが、とてつもなく淋しがりやであると。彼岸の視点で此岸を見ており、誰も恨まず、憎まず、ただ己の人生を受け入れて笑っている。そこには微塵の崇高さもない、崇高でないからこそ、読書を貶めないのだと、説明がなされています。


確かに、何が善くて、何が悪いのか。その区別は非常に難しいと思います。大人になることにより、常識や礼儀というものをわきまえると表面的には分別がつくようになるのかもしれません。太宰は、人間が表面的なモノサシを持ち、善悪の判断を行っていることに対して欺瞞を感じていたのかもしれません。


それでは、善とは何か。美しいと直感した事柄が善いことなのか。理性に従い義務的に判断することが、善いことなのか。合理的なことが善いことなのか。結果的に、経済的な価値のあることが善いことなのか。非常に難しいことではあります。


小林秀雄さんの言葉が思い出されます。

「自分の嗜好に従って人を評するのは容易な事だ」と、人は言う。然し、尺度に従って人を評する事も等しく苦もない業である。常に生き生きとした嗜好を有し、常に溌剌たる尺度を持つという事だけが容易ではないのである。「様々なる意匠」より