子ども時代における自然体験と精神の健康−ベルクソンの新たな解釈を通して−/ 藤井奈津子(2006)



本稿は、J・S・ミルが青年期に抑鬱状態に陥ったことを一つの問題として提起し、それに関して、教育の問題と関連づけながら<子ども時代における自然体験>と<精神の健康>との関係について明らかにしたものです。コアとなる思想としてベルクソンが援用されています。よって、著者のベルクソンに関する叙述を読み解くことで、本稿の骨子が見えてくるのではと思います。


ウィリアム・ワーズワスの詩を手がかりに、「子ども」と「自然」との結びつきについて考察しています。ここから、二つの命題が見出されています。一つ目は、子どもには特有の自然体験、すなわち自然との一体化の体験(ヴィジョンの瞬間)があること、二つ目は、そしてこの原体験は後年になって再び見出され、われわれの精神を活性化させる力となることです。


ただし、ここで言われる自然体験とは、二つの意味があります。ひとつは、自己と外界との一体化の体験、またそれに伴う喜びの感情を示していること。もうひとつは、それは必ずしも実際の体験に限られるものではなく、想起された体験をも含んでいることです。


本稿では、これらの意味での自然体験について考察するために、ベルクソンの思想が援用されます。


ひとはなぜ心(人間)と物(自然)とを切り離して考えるのか。それは、自己や外界の事物を明確に固定された輪郭をもったものとして認識しているからと説明されます。ベルクソンの言葉を使うなら、人間の知性による空間化の能力によるものです。一方、そのような固定された事物は、実は人間のフィルターを通してみた仮の姿に過ぎず、本質的には実在(人間、物、自然)はすべて絶えず生成し続けているものであると主張されます。このように絶えず変化しながら区切られることのない“流れ”のことを「持続」と呼んでいます。


人間の内面においては、悲しい、嬉しいといった感情は、言語で表されるが、内部のリアリティを本当に表せているとは考えられません。感情も一つの流れであり、言語化(空間化)することは不可能とされます。


外界においても、人間は自然に対して固定した輪郭を与えながら生活しています。自然界とは無数の振動(持続)で満ちており、それらは相互に浸透し合いながら、一連の流れとして成り立っています。


自我の表層においては、空間化の能力は、人間が日常生活を生きるためにこのような思考習慣、知覚習慣が便利であると考えられます。一方、自我の深層において、世界をとらえるならば、そこにはさまざまな持続のリズムで満ち溢れていることになります。


ところで、それらの持続が、すなわち心(人間)と物(自然)とがどのように結びつくのかについては、曖昧な部分を残していると著者は指摘しています。これを考えるために、ドゥルーズベルクソン解釈が手がかりにされています。それによれば、私の意識は、水の流れや鳥の飛翔を感じ取ることができると読み取ることができると述べられています。「共感する」という言葉でも表現できるでしょうか。しかし、それぞれの流れを主体の意識に回収するという意味ではありません。なぜなら、ベルクソンは、観念論と唯物論もともに行き過ぎであると批判したからです。


フッサールを祖とし、すべての現象は超越的自我という純粋な場面に連れ戻すことを思考の様式とする現象学(「超越の哲学))からすれば、ベルクソンの思想(「内在の哲学」)は、単なる個人の心理的内面の素描にすぎないと批判されえます。しかし、著者は、世界をとらえる場合に、「超越の哲学」が世界を正しく認識する超越論的な意識の場を確保することからはじめるのに対して、「内在の哲学」では、世界を認識する意識もはじめからそこに内在する自然としての流れそのものに論点が置かれているのだと解釈します。そもそもベルクソンの思想がカント批判から始まったことから考えれば、自然な解釈でしょう。なぜなら、フッサールはカントの思想「物自体」の影響下にあるのですから。


ベルクソンにおいて実在をとらえるということは、唯一の持続である流れの全体そのものに内在することにほかならないと述べられています。それは、近代社会のあり方、またそれに由来するニヒリズムを克服していく可能性を開くことになると言われます。


ワーズワスが感謝と賛美の歌を捧げていた子ども特有の属性とは、このベルクソンのいう持続への内在そのものを表していると言えるのではないだろうかと著者は述べています。子どもとは、「生活への注意」にとらわれることが少なく、深い自我において世界をとらえているものであり、見るもの、聞くもの、触るもの、何にでも“なれる”。生成のリアリティがそこにはあるのだと。


子どもは成長するにつれ、その社会の思考習慣・知覚習慣に見合うように、流れているものを凝固させ、分割していくことになります。自己と外界の分離が起こります。しかし、子ども時代の原体験は単に過ぎてしまったものではなく、深層には潜在しているというのです。子ども時代へ退行することによってではなく、持続の流れを生きる個体になることによって、“取り戻せる”のであると説明されています。