よき社会への道筋〜ベルクソンとアーレントの哲学より考える



自分自身、ここ数年、ベルクソンアーレント、一見相反するように見える二人の哲学者にとても魅力を感じてきました。どこかで共通点があるはずだと直観していたのですが、言葉ではうまく説明できませんでしたが、少し光が見えてきたような気もします。


なぜ、こんな回りくどい作業をしてしまうのか、自分でもよくわかりませんが、自身の直観をもっと大切にしたいのと、言語という知性の能力によって整理をつけておきたいという気持ちがあるからだと思います。


先に言うと、ベルクソンは「個」から、アーレントは「世界」から論じたけれども、説明の順序や着目点は違えど、二人の思い描いた「よき社会」の構想は多分に重なっているところがあると思うに至ったというのが結論です。


ベルクソンの哲学では、ある人間の直観によって突き動かされた、神がかり(悪い言葉では病的)な行為こそが、倫理的に善いものであるかのように思えてきます。


いやむしろ、ベルクソンの愛の跳躍の具現者が行う行為とは、その時点の社会においては、型破りの新しいものであるので、その社会の倫理規範では、計りとることは難しいかもしれないです。むしろ、よくないと評価される場合が多いのかもしれません。


例えば、マザー・テレサのような人が再び違った社会で出てきた場合、現行の倫理学は、そのような人間の活動を、即時的に”よいもの”として評価することはできるのでしょうか。


きっと、マザー・テレサは、心の中に、よいあり方、よき生き方を抱いていたんだろうと思います。個人が”よい生き方とは何か”と自問自答すること、それも倫理学のひとつだと思います。もっと言えば、本質だと思います。


功利主義論者なら、何人の人に快楽をもたらしただろうかと事後的に評価をするでしょうか。義務論者なら、今から行おうとする行為はどんな規範に履行しているだろうかと事前的に評価するでしょうか。


ところで、ベルクソンが描いた、「よき生き方」を示す神秘家への憧憬により人々が駆動され、「開いた社会」を目指すという道筋は、どこかマッキンタイアのいうコミュニティのあり方にも似てはいないでしょうか。


コミュニタリアン論者、マッキンタイアは、「美徳なき時代」の中で、徳を涵養するには分断してしまっているコミュニティを再建しなければならないと強調しています。有徳な人ってのは、周りがその行為をよいものとして肯定するから有徳なんでしょう。


山脇直司氏が「公共哲学とは何か(ちくま新書)」で指摘するように、公共性というと、「滅私奉公」を連想する人が少なくないのかもしれません。その先に、全体主義を連想してしまう可能性ありますね。


滅私奉公の対極にあるかのように見える滅公奉私。しかし、いずれにおいても、個人の尊厳や他者感覚と切り離せない「公共性」の次元を書いている点で、共通していると指摘されています。


アーレントは、「公共性」を、互いに共通性をと異質性をもつ人々が言語活動をとおして共有できる世界と定義しました。アーレントが危惧したことは、古代では私的領域に閉じ込められていた経済が近・現代に「社会的なもの」に肥大化したことによって、公共的領域が消失したことです。


ここはまだ綿密な文献調査を行ったわけではないですが、アーレントのいう公共性は、言語コミュニケーションに限定はされているかもしれないが、コミュニタリアンの考えに近いものを感じます。


ただし、ベルクソンの哲学の観点からすれば、「言語」とは、生物の中でも人間が最も発達させた知性の能力であり、空間化の能力です。


ベルクソンは、キリスト教の神秘家として、聖パウロシエナの聖カテリナ、聖テレザ、聖フランチェスコジャンヌ・ダルクを挙げて、完全な神秘主義は、行動であり、創造であり、愛であるだろうと説明しています。神秘家とは、エラン・ダムール(愛の跳躍)の体現者のことです。それは、知性だけでなく、本能的な共感能力にも優れた行動力のある人のことです。


アーレントは、公的領域において、人々が言語コミュニケーションを活発に行うことを強調しました。言語とは、ベルクソン的に言えば、知性の象徴であります。したがって、ベルクソンアーレントの相違点があるとするなら、行動と言語の違い、すなわち、知性と本能のどちらに重きを置くかの違いのように思えます。


しかし、このように概念で考えると相反するように見えるのですが、現実社会では、言葉と行動は、一人の人間から、不可分に生成しているとも見て取れます。これらをひっくるめて「生き様」としてみることができると思います。そのように考えるなら、ある人が抱く「よき生き方」という観念の表れである言葉と行動が、公的世界で表現された場合、周りの人間は、言語能力と本能(感性)によって共感をし、駆動されることもありえるでしょう。


自分自身、ベルクソンとアーレンントの著作を読んでとても心震えるものがあったので、後から色々反省を行っているのですが、今のところ思い当たる理由というのは、「何がよい生き方なのか」、「徳とは何か」、「いかに徳を積むかという倫理学の本質的な問い」、そして、「どんな人でも徳の涵養が可能なコミュニティの必要性」といったものが、自分の生きてきた人生において、欠如していていることを感じながらも、その違和感を無意識下で抑えこんできたからなのかもしれません。

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参考文献
ベルクソン「道徳と宗教の二源泉」岩波文庫
道徳と宗教の二源泉 (岩波文庫)


アーレント「人間の条件」筑摩学芸文庫
人間の条件 (ちくま学芸文庫)


マッキンタイア「美徳なき時代」(みすず書房
美徳なき時代


山脇直司「公共哲学とは何か」(ちくま新書
公共哲学とは何か (ちくま新書)