社会的公正

大島堅一「原発のコストーエネルギー転換への視点」によれば、原発は経済的で、発電を止めると電気が足らなくなるというのは、「プロパガンダ」に過ぎないことが明らかにされています。


福島原発の事故は、様々な問題が日本にあることを露呈させましたが、そもそも社会ひいては環境に対する国民や市民の姿勢にも問題があることを露呈させているように思います。環境問題というと「節電」、「節約」、「エコ商品の購入」だけの話でしょうか。もしそうなら、日本は相当に遅れているのでは。「ライフスタイルを変える」というと、何を想像するか。「この夏はエアコンの設定温度28℃で乗り切った」というレベルの話でしょうか。


「ライフスタイルを変える」といった場合、人とのつきあい方、自分の生き方、幸福とは何か、豊かさとは何かというように考えることはあるでしょうか。「正しいとは何か」という問題に向かいあうことはあるでしょうか。環境対策、原発反対と言った時点で、深い意味で「自らのライフスタイルを省みる」というのが、筋ではないかと思います。


原発反対を言う人の中で、「遺伝子組み換え食品」、「医療保険制度」、「教育費」、「失業手当」、「男女賃金格差」、「消費税」といった問題まで考える人はどれだけいるでしょうか。


ハンス・ヨナスは「世代間の倫理」として現世代は次世代に責任を負うていることを哲学的に考察しています。核廃棄物などの負の遺産を次世代に残すことは、現世代の罪と解釈できます。


水俣病といった公害問題も、現在の地球環境問題と根っこは同じではないでしょうか。「みんなが加害者」なんて言えないでしょう。発生要因や必要な対応策にかかわる共通性はきわめて高いと考えられます。


公害問題は未解決のままと思えます。社会的不正義、人権侵害といった社会的公正の問題に対して政策・制度改革の取り組みは、ほぼ進んでいないません。


確かに日本国内での環境規制が強まり「公害」は減ったように見えます。一方、中国、ブラジル、インドネシア、フィリピンなど海外各地での発生が後を絶ちません。汚染源を海外に押し付けただけに見えます。


「キタ(先進国)」が「ミナミ(発展途上国)」に、都合の悪いものを押し付けるという構造は、「地球全体主義」の考えからは受け入れられない行為です。


原発の問題は、結局は社会的公正の問題。社会の豊かさ、人生の豊かさ、正義の問題。諸処の環境問題も公害もしかり。国民レベルでの根本的な議論と意思表示が必要と思います。たまに皮肉で、「日本人は身体だけ大人で、精神的には子ども」と言われる事がある。諸処の問題を見てみると、認めざるをえない。


「正しいことは正しい」、「間違っていることは間違っている」とどんな相手でもわかるように伝えることが大切ではないかと思います。