異文化理解 / 青木保(2001年)

異文化理解 (岩波新書)


★文化という現象が人間にとって非常に重要なのは、それが価値の問題だからです。どれだけわりきろうとしても、どこかに自分が生まれ育った文化をになっているし、その宿命から逃れられないという側面があります。


日本は外来文化を非常に広く受け入れる、世界でも珍しい社会と言われます。その反面、本来の文化が持っていた形を全部なし崩しにして自文化に同化させてきました。近代の日本人の異文化に対する態度は、アフリカとかアジアといかいった、西欧やアメリカ以外の文化に対しては、正しい認識をしようと努力してこなかったと指摘されています。異文化に対して憧れと軽蔑という極端な態度を示してきました。ただ、人間というのは好き・嫌いという二元的で表面的な捉え方をしてしまいがちというのも事実で、異文化に対しても断片的な知識や印象だけで結論づけてしまいがちです。


文化人類学では「境界の時間」と呼ばれる社会的に一種の空白の時間があります。具体的には、冠婚葬祭などの儀式の時間です。成人式、結婚式など人生の節目に行われる儀式のことです。そのような境界の時間を設けることによって自分の生活に生命を吹き込んだりまた逆に息抜きがでます。多くの異文化では生活の中に設けられた「境界の時間」が機能しています。一日のうちでも、公から私へ移行する夕暮れ時がそれにあたります。ただ、日本では近代化と都市化によりそのひと時が失われました。異文化を理解することの意義は、ひとつには自分たちにないものをその中に発見して、それが自文化ではどうしてなくなったんだろうとあらためて考え直す機会を与えてくれます。儀礼は文化を象徴するものなので、その意味をただちに理解することは難しいです。ただ、その儀礼を理解しようとしていくと、その社会のある構造が見えてきます。


オリエンタリズムは、いまでは大きな意味で異文化に対する偏向を示す象徴的な言葉として使えると著者は言います。異文化との交流が増える中で、あまりに無知であったり、無知からくる偏見は大きな困難や摩擦を生み出します。情報化時代は、異文化理解を進める側面も持っていますが、一方で、異文化に対するステレオタイプ的な決めつけが生まれやすいことも事実です。


文化のグローバリゼーションによって、やがて世界の文化が均質化してしまうのかというと、そうではないようです。情報と異文化理解というのは意外と難し関係にあります。メディアで発信される情報は「速い」情報ですが、受信側の私たちは情報を理解するのには依然として長い時間を要します。特に、異文化とのコミュニケーションをはかる場合には、「遅い」情報に注意を向ける必要があります。