ハプスブルク帝国の情報メディア革命ー近代郵便制度の誕生 / 菊池良生(2008年)

ハプスブルク帝国の情報メディア革命―近代郵便制度の誕生  (集英社新書)


★16世紀の郵便業務は書信、小荷物、そして人の輸送でした。最も重要だったのが、王政府の命令書等の各地への輸送です。郵便網を統括するのが郵便総裁でした。近代郵便制度の祖は、イタリアのベルガモ出身家のフランツ・フォン・タクシス(ドイツ名)とされます。参入のきっかけは、1489年にハプスブルク家の皇帝マクシミリアン1世の郵便物を請け負ったことにあります。皇帝マクシミリアン1世の陸路インフラ整備が「伝達メディア革命」の引き金となります。北イタリアのミラノとネーデルランドブリュッセルの間の陸路を整備することで、情報伝達を活性化させました。そのモデルは、古代ローマ帝国カエサルが発案した駅伝制にある、原型は古代ペルシアのプトレマイオス王朝がエジプトの陸路で行っていた手紙の輸送の駅伝制度と言われます。


ハプスブルク家の財政難にともない王政府主体の郵便事業は危機を迎えます。それに目をつけたのが商人たちです。都市飛脚制度の効率性を一気に高めます。多くの都市の共同事業により都市飛脚制度は整備されていきました。都市飛脚の公共性、リレー輸送、定期輸送が新しい都市空間ネットワークを生み出しました。スペインからの独立を狙ったネーデルランド北部七州がこのネットワークを利用します。彼らの経済力が、新しいコミュニケーション・ネットワークを活気づけ、プロテスタント諸候も後押しします。結果、16世紀後半にはかなり濃密な郵便網が敷かれました。


ところが、17世紀には、各国王政府は郵便権利を商人から取り戻し、国営化し、制度改革を図ります。皮肉なことに、ドイツではルドルフ二世、フランスではシャルル九世、イギリスではチャールズ一世といった暗愚鵜な君主の時に郵便制度が花開きました。各国王政府は、郵便の検閲を徹底したり、テロの発見・防止に勉め、収益を独占します。


当時、手紙は途中で密かに開封され、複数の人に回覧されるのが常でした。そも意味では手紙はジャーナリズムでありました。新聞のメルクマークは定期性と公共性と回覧性にありまし。1605年に世界初の活版印刷の定期新聞「報告」が発刊されました。手書きではなく活版印刷で行われています。


郵便網を使って旅行も徐々に一般化していきます。ただし、当時のヨーロッパの度は、悪路、最悪の馬車、追いはぎ、強盗とまさに拷問そのものでした。英語のTravelの語源はラテン語で拷問用具を意味するトレパリウムから来ているし、ドイツ語の旅Reisenも、軍旅にたつこと、徹営を意味しています。それでも人々は、快適さよりもスピードを求めました。18世紀には、旅客専用郵馬車は、旅を世俗化し、民主化し、人と物が交流する巨大公共空間を作り出しました。


18世紀は「手紙の世紀」でした。ヨーロッパでは郵便組織が整備されていることが文化のメルクマークとなりました。それは急激な人口増加が関係しています。都市住民が手紙を書き始めたのです。


19世紀後半には、プロイセンによりドイツが統一されます。ハプスブルク家もタクシス家も除外されています。郵便の世界的「民主化」「大衆化」に拍車をかけます。1869年には、オーストラリアで葉書が導入されます。「信書の秘密」も当たり前になります。


郵便事業を国民福祉の住民サービスとして運営すべく国営化してきた世界の多くの国々は、20世紀末から21世紀にかけて、郵便の民営化を進めています。オーストラリアでは、個人商店を閉店に追い込んだ大型スーパー・チェーンの数社が、郵便事業の肩代わりを申請しています。


16世紀の第1期グローバリゼーションの波に乗り発達してきた郵便が、いまでは途轍もないグローバリゼーションに逆に呑み込まれてしまったということです。