郵政ー何が問われたのか / 世川行介(2005年)

郵政―何が問われたのか


郵政民営化以前は、郵政ファミリーは郵政現業の中核に「郵便事業」を置き、「全国民に公平に公共サービスを提供する」という社会的意義を与え、それを「現業理念」としてきました。しかし、1985年頃には貯金事業が増強され、実質的には郵貯を主軸として、郵政三事業の将来を語るべきであったと指摘されています。ところが、実際は郵便主軸の現業理念から抜け出すことができませんでした。その背景には、日本の高度経済成長を支えてきた財政投融資政策がありました。財投と呼ばれた制度は、郵政省が郵貯簡保で集めたお金(『入口』)を全額、大蔵省に(金利付きで)預託させ、預かった大蔵省が特殊法人などに貸付け運用する(『出口』)というシステムの上に成り立っていました。『出口』については、郵政省は全く関与することができず、民間金融機関の元締めであった大蔵省は、自分たちの支配権の及ばない郵貯が拡大することを嫌っていたから、金融機関として自立するのに必要な諸機能を郵貯に与えようとしなかったのです。財政投融資の原資である郵貯の運用をめぐって大蔵省と郵政省は、熾烈な争奪戦、すなわち官僚同士の利権争奪戦を繰り広げました。最初は大蔵省が優位に立っていたが、竹下派(後の橋本派)と密着した郵政官僚は、政治拡大のために、特定局長をあおり、政治路線に走らせ、全特(全国郵便局長会)を支援する国会議員連盟『郵政事業懇話会』を発足させます。初代会長には金丸信が就任し、竹下派を核として「郵政族」と呼ばれる族集団が誕生します。やがて、郵政族自民党最大の族集団となります。結果、大蔵族と郵政族の立場が逆転しました。押され気味になった大蔵グループから小泉純一郎が「郵政事業は民営化するべきだ」と声をあげ、政界のドンキホーテとも嘲笑されました。郵政省は1987年には自主運用権を部分的に手に入れ、郵政公社として2001年には郵政公社郵貯簡保資金の全額を自主運営することになります。


「郵政事業を民営化しなければならない明確な理由」が小泉や竹中から語られたようで、実は語られていません。政策的には矛盾に満ちた論理ばかりで、国民は小泉劇場に翻弄されたあげく、手数料が高くなった郵貯のサービスに直面するはめになります。「改革」というけれど、国民のためにならないなったかというと、疑問符が残ります。


バブル期の郵便貯金募集は、国家ぐるみ、つまり、大蔵省も政府筋も合意の上でなされたものでした。大蔵族のボス竹下が率いる内閣があり、郵政業界を支配する竹下派がありました。政府が郵貯をパイプにして、たった10年ほどで、全国津々浦々の「タンス貯金」を吸い上げました。郵貯の天敵である大蔵省でさえ、郵貯肥大化の懸念よりも財政投融資原資のかき集めを優先しました。そしてその結果、つかの間の繁栄を味わっただけで大不況を迎えます。郵貯資金を融通して成立した政府系金融機関は9つあるが、当時多額の回収不能金が発生していると言われました。全国各地の国民が国家を信用して預けた巨額の資金を、政府系金融機関経由で特殊法人やバブル企業に安易に垂れ流した財投運用の無様さこを責められるべきだと、著者は述べています。


さらに著者は、反感覚悟で述べています。味も香りもあった郵政現業を今日のような味気なく無価値なものにしたのは、中間管理機構である地方郵政局の小役人たちだ。真の「郵政改革」は、非生産的であるくせに管理監督権だけは何でも欲しがるこの中間管理機構に大胆なメスを入れない限り、公社のままであろうが民営化しようが、絶対に一歩も進まないと。