ハイデガーの「存在と時間」とともに

多分,ハイデガーの「存在と時間」に興味を持ち始めたのは,去年の今頃だったと思う.それから一年間,色々な著者の本を読んできた.今年の6月くらいから,生命の哲学研究会で,「<生命>とは何か?」,「<生命>について考える<私>とは何か?」といった命題に向かって,哲学研究の学生達と議論をするようになった.テキストとして,ベルクソンの「意識に直接与えられたものについての試論」を輪読している.
一方で,自分が所属している研究科で開かれている環境倫理勉強会に参加して,ディープ・エコロジーについて考え,発表もすることになった.その時に,森岡さん,鬼頭さんの著作を読むようになった.
実は,生命の哲学研究会の学生たちは,僕以外全員が,森岡先生のゼミ生であったのだ.この偶然の一致に驚いた.
僕は,2つの有志の勉強会で数人の学生と接し,また,数冊の書物を読んでいる.これらの人々は,それぞれに様々な問題意識を持っている.僕はそれを知ろうと,話を聞いている段階ではある.しかし,これらの問題意識のレベルは,普段,科学的に寄生バチを研究しているのとは,異なっているようには思える.
かっこよく言えば,科学と哲学の両方を同時に勉強していることになる.だからといって,僕は「科学哲学」という分野を勉強しているって意味ではない.どちらを勉強していても,「生きがい」を感じることができる.やっぱり今の僕にはどちらも大切なのだ.
ここで一つだけ教訓がある.決して偉そうなことは言いたくないし,飽くまで自分に対する教えだ.どんな立場であっても,積極的に知識を求めようとすれば,必ず道は開ける.しかも,自分が思っている以上のものが得られることがある.人と接するということは,必ずしも心地よいことばかりではなかったりする.むしろ勉強を一緒にするとなると,自分の弱いところを突かれるので,非常に苦しい思いもする.しかし,それはある意味では,有難いことだと思う.それだけ自分は自分に甘いという証拠なのだから.