Books: 自分と向き合う「知」の方法 / 森岡正博

また回顧録です(笑)。私が、大学院生のころ、個人的な興味から環境倫理のことを勉強しておりまして、その際に、森岡正博さんの著作を読みました。第一印象は、「痒いところに手が届く」、「自分が言いたかったことを代弁してもらった」というものでした。

私の専攻は農学系で、サイエンティフィックな論文が書けるようになるための勉強(訓練)をしていました。科学論文というものは、「〜が観察された。」「〜が示唆された。」「〜と考えられる。」という風に、基本的には受動態で書かれます。「私は、〜と考えた。」「私には、〜が見えた。」という記述は、基本的にはしません。その理由は、科学論文にはルールがあるからです。平たくいうと、「同じ条件で実験すれば、誰がどこでやっても、同じ結果が得られる(普遍性)」、「誰の目にもその現象は観察可能である(客観性)」、「同じ条件下で実験すれば何度でも同じ結果が得られる(再現性)」とったフレームワークの中で記述されるからです。これがあるからこそ、ロケットは月や火星に行けるわけなんです。(極端にいうとです。ここでは、厳密な議論は避けます。)

ですが、科学論文にはないものがあります。それは、「私 "I"」という主語(主体)です。

私は、科学論文というものと格闘しながらも、時折、森岡さんの著作を読んでいると、この方は、「私が、私というこの世で唯一の存在(であるかもわからないが)に目を向けて、それを対象に研究を行なっている」ように見えたので、その様子がとても新鮮でした。とてもプリミティブなところから問題意識を持っておられるのがわかりました。例えば、「自分と向き合う「知」の方法」のくだりでは、こんなことが書かれていました。

世界を自分から切り離して対象化する物質科学の方法論では、世界の姿がよりよく見えないような時代に我々は突入しようとしているからである。そのことは、実は、大学という世界に適応できなかった(しなかった)ふつうの学生や社会人の人々が一番よく知っている。彼らは、この自分自身の生活や日常とどういうかかわりをもつのか分からないような講義を、しらけたまなざしで見ている。彼らの目から見れば、大学で講義されているもののほとんどは、自分自身と現実世界から遊離した自己完結の論理ゲームである。

これは、夏目漱石の「三四郎」で、主人公三四郎が、理科大で光線の研究をする先輩・野々宮さんに抱くような感情を思い出させるものでした。研究室にひきこもり、小汚いかっこうで、その研究が何の役に立つのかよくわからないし、その研究者自身は、自分の姿や生き様というものにどれくらい興味があるんだろう?と思わせるものです。

森岡さんの言われる「主体的である」の意味は、「そのことがらを知的に追求することが、いまここで生きている自分自身にとって何なのか」という問題意識を持つことです。論文たくさん書くとか生産性が高いという意味での主体性ではないです。

理系の研究だけがそうなのかというとそうではないらしく、人文社会系の研究にも、物質科学的アプローチにも浸透してきているそうです(少なくとも当時は)。

私も影響を受けて、環境倫理について議論を進める中で、「自分はその問題とどうかかわってきたのか」、「そもそも自分が生きている社会とはなにか」といった深いところも考えようと思うようになりました。「自分を見つめる」というのは、自分の感情や感性が真実だといった自己陶酔に陥ることではなく、その感情、感性、思考さえも疑うことです。

ただ、その一方で、私はどれだけ議論したところで、他人の意見はよーく理解できても、「自分とは何か」という問いには、やはり経験を積みながら少しずつしか見えてこないと思いました。こればかりは、他人が考えてくれるわけではないんですよね。誰かの手法(生き方)を真似すればいいというものでもないですし。森岡さんのように茨の道を切り開きながら生きている方がいらっしゃるんだということは、本当に励みになります。今でもときおり思い出すのです。

自分と向き合う「知」の方法 (ちくま文庫)

自分と向き合う「知」の方法 (ちくま文庫)

 
生命観を問いなおす―エコロジーから脳死まで (ちくま新書)

生命観を問いなおす―エコロジーから脳死まで (ちくま新書)

 
無痛文明論

無痛文明論