一神教の闇−アニミズムの復権/安田喜憲(2006年)

一神教の闇―アニミズムの復権 (ちくま新書)


★本書を読んでいてまず思ったのが、人の性格がそれぞれ違っているように、文章の書きっぷりも人によって大きく異なるものなんだということです。しかし、「〜新書」と呼ばれる類の書籍の性質上、敢えてズバズバ書いているという見方もできます。おそらく後者なのでしょう。
現代の、いわゆる「文明の衝突」の時代において、日本という国がバッファー(緩衝材)的な役割を果たす可能性は高いといった言説は何度か耳にしてきました。それらの言説の一部は、一神教同士の国の狭間にたって調停できるのは、アニミズムの文化を持つ多神教の国であるといった考え方に由来しているものと考えられます。
個人的には、「科学」という欧米の土壌で構築されてきた思考の様式に直面した場合によく思うことが、物語(ストーリー)作成能力のなさです。それは科学論文を読んでいても、欧米人の思考回路のタフさやパワフルさの優越性を感じることがあります。ダーウィンの進化論の例などいい例だと思います。超越的思考はやはり向こうの人々の特性でしょう。それらの起源は、本書でも言われているように、一神教的文化の土壌にあるのかもしれません。
本書でも紹介されているように、人間を「図鑑型」と「物語型」の二つの概念にわけて捉える試みをした学者がいるらしく、前者は現世的秩序にこだわり、目の前にある生きとし生けるものの存在やその関係性、さらにはそのメカニズムに興味を懐く傾向が強く、後者は超越的秩序を形而上学的・倫理学的に構築することを好む傾向があるとされています。日本人は、前者の「図鑑型人間」にあてはまるようです。
第2次世界大戦にアメリカに敗れた日本人は「やられたら、必ずやり返してやろう」という思考を持ったのではなく、じっと「哀しみを抱きしめて生きる」ことを実践してきたと解釈されています。こういった「心のクッション」の大きさは、「利他の心」を養い、「心の作法」を醸成した結果であるのかもしれません。その原点にあるのが「アニミズム」ではないかと説明されています。
上記の科学の例のように、日本人が欧米の一神教的文化に直面した時に感じる、自らの「曖昧さ」、「優柔不断さ」、「論理能力の脆弱性」、「奥ゆかしさ」など、コンプレックスとして抱えてしまう嫌いがありますが、短所は長所とも言えます。
ただし、やはり、アニミズム的文化を持つ日本がこれから活躍するとしても、周りをよく知り、自分の姿を相対的に見る必要があるのではないかと思います。「多文化主義」とはそういう意味なのではないでしょうか。