内省的環境倫理

発表の準備が一応完了してから、今回、なぜ世代間倫理について発表しようとしたのか。自分の問題として、家路につく途中の電車のなかでいろいろと考えました。


国、共同体単位での地球環境保護の動きが70年代ごろから欧米を中心に出始めて、自分も大学院で具体的に保全研究の一端を垣間見ることとなりました。そのとき感じた正直な感想は、「なぜこの私が見も知らない他人の趣味のために自分の身を削ってまでそのような活動をしなければ(あるいは協力しなければ)ならないのか」という反発的な気持ちでした。


しかし、このような感情を抱いた自分に対して、今までの間ひどく悩んできました。わりきって、世の中全体がそのように動いているから。あるいは、上の方からそのようにしろといわれているからというように考えれば楽になるのかもしれません。しかし、わりきることはできませんでした。何事も自分を棚上げにせずに考えることが大切だと思います。


 一つの解釈としては当時は青年期特有のある種のニヒリズムに陥っていたと考えることです。まがりなりにもサルトルカミュキルケゴールなどの実存主義哲学、ドストエフスキーの小説にみられる無神論的な思想に興味を持っていたところからも、それは伺えます。


 もう一つの解釈は田舎育ちというコンプレックスを抱えて育ってきたからと考えることです。交通の便が非常に悪く、特にこれといった文化的なものや産業もなく、10代の頃はたいそう都会に憧れました。だから、環境を守るという理由で、田舎のインフラの整備が遅れるなんて、それは単なる都会の人のエゴの押し付けにしか思えませんでした。


 結局、環境問題の解決のための社会政策としては人間中心主義から人間非中心主義へ移行していることは頭では理解できても、個人の倫理観として、なかなかすっとくることはありませんでした。


 ここにきて、なかば心理療法としてひとつの物語を読んでいくかのように、ハンス・ヨーナスの哲学を根本とする世代間倫理の考え方を勉強しはじめました。一方でそれに対する批判、例えば、レヴィナスアーレントとの見解の違いなどについて出来る限り知ろうとしています。


 ひとりの哲学者や思想家が残したいくつかの書物をたどっていくと、必ずといっていいほど、その人の葛藤にぶつかります。現実と理想の間のギャップから憂いが滲み出してきている部分もあります。


 ヨーナスも、かつては反自然主義とも言える、グノーシス主義について青年期に徹底して研究してきたようです。また、ヨーナスがこのような思想を展開するきっかけは、人間や他の動植物のお腹がすくという「飢え」からだと言われているところです。現象学ではこの「飢え」の解決はできないと考えたようです。その思想は、誤解を恐れずに言うなら、アニミズムに近いものがあります。自然に対して畏敬の念を抱く、すなわち「加害の恐れ」を感じることで、人に責任が生じているとも解釈できます。その生命論では擬人論、目的論の必要性が説かれています。


 自分の葛藤と、過去に色々と考えた人の葛藤が似通っている場合、やはり一度は引き込まれてしまいます。自分の問題として読み解き、そしてまた距離を置いて批判的に態度をとり、それでも重要だと思われるところは自分の思考回路として頭の中に保存しておく。


 結局、自分はいつもこうやって、似通ったことを考えた人の思考の道筋を辿ることで、自分の倫理観を見つめなおしているのかもしれません。