逍遥の記録

逍遥(しょうよう)という言葉を知ったのは、キルケゴールに関する論文を読んでいるときでした。といってもそれほど難しいことは考える能力は持ち合わせていないので、憂さ晴らし程度に出かけるといった方が良いでしょう。


はてなのブログも、自分が知らない間にどんどんとサービスが豊富になっているようです。面白い機能のひとつに、地図上に自分の写真をプロットさせていくというシステムがあります。海外の写真サイトなんかではよく見かけますよね。早速、一部の写真について位置情報を付加させてみました。


これです→ http://f.hatena.ne.jp/lalakoora/Rambling%20(Japan)/?mode=map


京都を中心に、大阪、神戸、地元あたりでぶらぶらと逍遥していることがわかります。ただ、掲載していない写真もいくつかあるので、これがすべてではありません。こうやって見てみると、自分は軽く写真撮影を趣味としていることにも気づきました。


ついでに、過去の自分の日記も読んでみました。気恥ずかしくなるものばかりでした。よくこんなことを公開しているなと思いつつも、いまだにこれを続けている自分がいることに驚きでした。文章の書き方も淡々と書くように心がけています。ソルジェニーツィンの『イワン・デニーソヴィッチの一日』のタッチが理想かな。


 自分にとっても逍遥の意味は、英語ではramblingあるいはrambing onと訳をあてがっていますが、気持ちのリセットする役割を果たしているのではと思います。本当の意味での逍遥は、独りで出歩くことです。一時期は街に出てカフェでゆっくりするというスタイルを好んでいましたが、最近は専ら寺社巡り(たまに山ハイキング)となっています。自転車に乗ったり、歩いたりすることの方が、気分のリフレッシュ感があります。


自分はどちらかと言えば、人に自分のことを打ち明けて、ストレスが解消されるタイプではないのだということもこの歳になってわかってきました。どこかで、結局、自分のことは自分でしか解決できないというのがあります。しかし、誰からも考えるチャンスが与えられないという意味ではありません。他人からそのチャンスは大いに享受すべきだと思います。その上で「自分のことを棚上げにせず」自分を見つめることが大切なのではないかと思います。逍遥とは、憂さ晴らしと言いつつも、全行程のコアの部分には、こういった内省的時間が含まれているのかもしれません。


いつもながら最後に話がかなり飛躍しますが、最近、生命や環境について多くの問題が取りざたされています。このような問題を生じさせる根源はどこにあるのでしょうか。何が、誰が、悪いのでしょうか。もしかりに、諸悪の根源は自分の外部にあるのではなく、自分の内部にあるのだと考えるなら、どうなるでしょうか。